小松クラフトスペースのあゆみ

 
 
小松和彦 
1948 小松金次郎、ナミエ夫婦によって「小松呉服店」として創業 
1961 「有限会社・小松呉服店」として登記 
1981 小松正雄が代表に就任
1982 店舗新築 店舗名が「古代布商處・着物小松」に
1984 越後上布・鈴木苧紡庵展 久留米絣・松枝玉記展(秋田市文化会館)  
1985 新道弘之・藍染展 
1986 山崎青樹・草木染展 
1988 小松金次郎死去
1989 原始布展 
1992 稽古館コレクション・李朝美術の潮流展 
1996 店名が「小松クラフトスペース」に 
1997 第一回カンボジアチャリティーバザール開催 
1998 永六輔氏の著書『商人』(岩波書店)で紹介される 
2000 工房しょうぶ・アウトサイダーアート展 
2002 バーンロムサイ・Under the tree展 
2006 小松和彦が代表に就任 社名が「有限会社小松クラフトスペース」に 

※2006年以降の活動はブログにて
 

 
 
小松正雄
昭和37年の住宅地図より。「小松呉服店」が現在の当店   小松金次郎、ナミエ、正雄 
 
松枝玉記展
カンボジア 類いなき手仕事
カンボジアチャリティーバザール   イエルカ・藤田丈展
 
 

 
スタッフ紹介

小松和彦
代表:小松和彦 


1976年、秋田市生まれ。青山学院大学史学科卒業(考古学専攻)。在学中は東北アジアの古代文化について研究。1999年、父と共にカンボジアのNGO活動に参加したのがきっかけで、アジアの手仕事や民族文化に深く感銘を受ける。以来、アジア、アフリカを中心に世界30か国あまりを訪ねて、美術工芸品の収集や商品の企画、販売を手掛ける。

2006年、父の跡を継いで小松クラフトスペースの代表に就任。そのかたわら民間信仰や花柳界を中心に秋田県内の郷土史研究を行う。これまで「縄文文化とアート」、「世界の民族工芸」、「花柳界」、「秋田の民間信仰」などに関するレクチャーを全国の大学や公立博物館、図書館、アートイベントなどで行っている。

著書:『秋田県の遊廓跡を歩く』(渡辺豪さんとの共著、カストリ出版、2016年)

村を守る不思議な神様〜あきた人形道祖神めぐり』(宮原葉月さんとの共著、2018年)


村を守る不思議な神様・永久保存版』(KADOKAWA、宮原葉月さんとの共著、2021年)

秋田人形道祖神プロジェクト(宮原葉月さんとのユニット)

新あきたよもやま」(秋田魁新報電子版での連載コラム)

 
 
 
小松正雄
前代表(ご隠居):小松正雄 


1948年、秋田市に生まれる。学習院大学中退後、実家の小松呉服店に入社。

結婚後間もなく日本各地の着物生産地を訪ね放浪。1982年、店舗をリニューアルし「古代布商處・着物小松」と して、古代布や工芸作家の作品を扱う。この頃、北東北の古い衣装や織物の収集にも没頭する。

1997年、ペン・セタリン氏、永六輔氏の呼びかけでカンボジアのボランティア活動に関わる。これががきっかけで、アジア各地の手工芸に深く関心を持つ。

以来、毎年世界各地に渡航し、工芸品の収集や生産に携わる。こうした活動が永六輔氏の著書・『商人』 (岩波書店・1998年)に紹介される。

2006年、これまでに収集した古い藍染の衣装、布を展示する 「KIMONO INDIGO展」がフランス・ヴィシーにある美術館「Musee des Arts d’Afrique et d’Asie」で開催される。同年、家業を息子・和彦に譲り、「たそがれの旅」がスタート。

著書:『たそがれ見聞録』(2007年、絶版)、『たそがれ見聞録2』(2010年)、『たそがれ見聞録3』(2013年)すべて小松クラフトスペース刊

写真展:『俺のたそがれ紀行展』(2007年、秋田市ココラボラトリー)、『俺のたそがれ紀行展2』(2010年、同)、『俺のたそがれ紀行展3』(2013年、小松クラフトスペース)

 
 
小松泉美  小松美紀子 
小松泉美   小松美紀子(マダム)
潟上市出身。歯科衛生士として働くかたわら、2008年からハンドメイドイベント『旅するマーケット』を主宰。音楽フェスの会場やお寺の本堂、神社の縁日、カフェなど秋田県内各地でイベントを開催。2013年、結婚を機に小松クラフトスペースに入社。現在育児と仕事に奮闘中。  秋田市出身。大学では住居学、色彩学を学ぶ。同時期、バウハウスに影響を受ける(現在の店舗を建設した際には、デザイン設計を手掛けた)。1971年、結婚を機に小松呉服店入社。当初経験も知識も無かったが、姑に着物の基礎知識を学び、その後着物研究家の木村孝先生から直接教えを受ける。着物文化を次世代へ引き継ぐべく「小松呉服店」からの暖簾を守る。
 

小松クラフトスペースのあゆみ(2006年版) 
※このテキストは1999年に書き、2006年に加筆したものです
旧店舗(1950年代)
小松クラフトスペースは当初、小松呉服店という呉服屋であった。

小松呉服店の創業者小松金次郎は戦前帝国石油の石油試掘技術者であったが、兵役中、東南アジアでかかったマラリヤの影響で戦後リストラされる。路頭に迷った金次郎とその妻ナミエは身の回りの品々を商品として、1948年、秋田駅前に古着屋を創業した。(左写真、創業当時の小松呉服店、中央に立っているのが金次郎)

その後、着物を主とし靴下などの雑貨などを扱う商店に変換して行き、やがて高度成長に伴い高級呉服を扱ってきた。しかしながら創業者の高齢化に伴い低迷時期に入る。

二代目正雄は5人兄弟の末っ子に生まれる。店の跡取りは子供たちに次々と拒否され、「正雄こそ最後の砦」・・・とは誰にも期待されていなかったが、大学を2年で中退(厳密には退学)の彼には何処に行くあてもなく、結局気が付けば家業を継ぐ運命になっていた。


初代金治郎は正雄に『金儲けに邁進するな、好きなようにしろ』とだけ忠告した。それは青春時代「石油王になる」ことを夢み、それをかなえられなかった金次郎の「夢の残り香」であったのだろう。

ろくな修行も出来なかった二代目は日本の着物生産地を隈無く歩いて研究すると宣言し、結婚間もない妻子を残し日本の津々浦々からアメリカ、ブラジルまで現実逃避の放浪の旅に出掛けていた。時には「沖縄に行く」とだけ言い残して旅立ち、一月以上も戻らないばかりか家には電話一本せず、周囲を呆れさせる有様であった。

1982年、正雄は新たに店舗を建設(右写真、現店舗)。これまでの商売から一転、「自分の趣味にあった商売をする」ことを決める。

暫くして、古代布復興にかけた米沢在住山村精氏に出逢い、貴重な教えを請い古代布に没頭する(1980年代)。

やがて古代布が時流と共にブームになると、「役割は果たした」と身を引く決意をし、世界の染織をはじめとする工芸品に視点を移した。そして90年代になり、国境とジャンルを越えて、店主がこだわった「手仕事の工芸品」を扱うギャラリーにかたちを変え、店名も『小松クラフトスペース』として現在に至っている。

こうしてミレニアムをなんとか乗り越えた『小松』であったが、正雄の悪い遺伝的を受け継いだ長男・和彦は、同じく大学卒業後(こちらは逆に2年余分に在学)行くあてが無く、実家で丁稚奉公する事に。かねてから「俺の代で暖簾をおろす」と言っていた正雄もこれには如何ともし難く、和彦が三代目を襲名することになった。

現在の店舗
店主&WEB管理人の紹介

恥ずかしながら簡単に自己紹介させていただきます

自分の写真はどれも変なのばかりでこんなのしかありませんでした  小松和彦 1976年 秋田市生まれ

子供のころから父や店に出入りしていた方々の影響で古いモノ(遺跡や古美術など)が大好きでした。そんな趣味が高じ、青山学院大学で考古学を専攻。若輩の身ながら海外での学術発掘調査に何度も参加させていただいたり、何かと諸先生や先輩方には面倒を見ていただきながら、卒論を提出締切日に出し遅れて留年したり、酔っ払って先輩のノートPCを破壊したりとトラブルと話題を提供しつつ、大学を小学校と同じ6年で終了いたしました。

大学3年の時に父親と東南アジアを旅して以来、魑魅魍魎なアジアの民族文化や手仕事に惹かれ、学業の片手間に海外での仕入れ仕事を請負い始めたのが今日に至る第一歩でした。一時は調子に乗って自分で会社名をつけ、輸入卸会社と学生という二足の草鞋を履く真似事をしてみましたが、そうなると立場上面倒なことが多々あることに気付き半年程で店じまい(その時作った名刺とゴム印は今でも記念として残しております)。

卒業後の数年間は「家事手伝い」というパラサイトな立場で相変わらず海外と秋田を行ったり来たりの生活。やがて腹をくくって小松クラフトスペースの所属に。父の「30になったら社長になれ」という当初からの厳命通り、2006年2月から代表に就きました。「後々になって後悔しないように今出来ることを精一杯やる」というのが現時点での抱負であり、心境です。

 

元店主・小松正雄の紹介


ここではご隠居こと、父の紹介をしたいと思います。
 ホント「読んでも為にならない」内容なので、あしからず御容赦のほどを・・・・

店主写真
(上写真)クリックすると、
拡大画像が見られます

ギター演奏中 1948年、秋田市に生まれる。中学校、高校はバレーボール一筋。学習院大学在学中には学生運動に青春の全てを捧げ、当然の如く退学処分になり実家に都落ちする。やがて父の跡を継ぎ小松呉服店二代目襲名。はじめは家業である着物だけを商うものの、次第にそれだけでは飽き足りなくなり、アートクラフトギャラリー・小松クラフトスペースを発足する。その巨大な体躯と(身長185cm)、熊のような風貌から外国人と間違われることは日常茶飯事、一時期理事長となっていた英語塾の生徒からは「フセイン」と呼ばれ恐れられる。

趣味はクラシックギター。毎日プロ並みの練習量を欠かさないが、実力の程は如何ともしがたく日々発展過程。しかし、自宅に来るお客さんには有無をいわさず必ず弾いて聴かせる
すでに芸暦(?)10年以上に達しているが素人耳には殆ど進歩が感じられない。。。酒好きで自称アル中。チャーミングポイント(?!)となっている髭の由来も酒が原因でやってしまった失敗から「自戒のため」に生やしたことに起因している(その後もそうした失敗談には後を欠かないのですが・・・・)。病気(酒)は息子にも当然遺伝。本人曰く、小松家の伝統は「酒末代まで、プロレス三代」なのだそう。因みにプロレス好きは確かに力道山以来、当家からは切っても切れない縁となりつつあるが、これは先祖に相撲取りが二人もいるという格闘系の血があることも見逃せない(その相撲取りは幕下止まりのため、しこ名も分かりません)

2006年2月、ついに不肖の息子に跡を譲り「隠居」を決意。しばらくはアジア各地で手仕事を探し求めるという隠居仕事に精を出すのが目標だが、ここにきて持病の「痛風」が悪化の気配。しかも飛行機に乗るたびに炎症がおきるという爆弾を抱えてしまったため、今後の活動に懸念が生じているこの頃です。

兼業農家への道
 
赤いトラクター

彼(ご隠居)の趣味の特徴として「はまると熱くなるが長続きしない」ことがあげられる。
これまでバレーボール→ゴルフ→釣り→スキー→料理ボディビル→骨董→テニス→農業→ギター(現在)という変遷を歩んできた。それぞれやっている時は周りまで巻き込んで凄まじい情熱を傾けてきたが、熱が冷めると何事もなかったかのようにパッタリと辞めてしまうのである。持続期間はだいたい2〜6年くらい。そのうち最も短期間で終わってしまった農業を紹介します。

1997年、正雄は「農業こそ自立的生活の基本」と考え田畑の耕作を実践した・・・というより単にうまい飯が食いたいがため、知り合いの農家にあれこれと注文して作ってもらった。熱くなると止まらない性格がここでもいかんなく発揮され『月刊現代農業』を購読したり、「不耕起栽培」の会員になったり、朝から晩まで農業書を読みあさる日々が続く。

稲は『秋田こまち』完全完全無農薬、手植え、手刈り取り、自然乾燥、除草はコイに頼ることにした。田植えの作業には友人、親戚さらにまで20人あまりを動員し、秋田から田圃がある湯沢の村まで大挙して押し寄せた。当然、田植えの後は飲めや食えやのどんちゃん騒ぎ(勿論ギター演奏付き!!)。どう見てもそれは「田植え」を名目にした田園パーティーである。収穫祭の時もそのパターンだったことは言うまでもない。

当初、順調に行っているように見えた作業行程も6月頃には暗雲がたちこめてきた。除草のためにと水田にはなったコイは増水した時に小川に逃亡したり、無防備に浅瀬で戯れサギの餌食になったりと、約一月後には120匹のうち2匹しか残っていなかった。噂ではあるが、放流後、村の老人や子供の間で「コイ釣り」が流行っていたという、あまり信じたくない話もありました。

自然の摂理に任せるのも自然の流れと考えた(多分何かの本で読んだ農業理論であろう)。そしたら収穫の秋を迎えた頃には田圃は一面ヒエに覆われていた(トホホホホ・・・・)。

収穫は少なく失敗に終わったが村の人たちにコイ釣りの楽しみを与えサギには豊かな食生活を保証し、いつしかサギの恩返しがあることを期待し、それなりに本人も周囲も楽しめた農業だった。

そして収穫した米は殆ど親戚、知り合いなどに配り、小松家では持ち分の米が半年も持たず、結局買う羽目に(笑)。その時周りに送った米には「兼業農家・小松正雄」名義で「今年から農業を始めました・・・云々」という手紙が添えられていた(爆)。さすがにそうこられては当然送られてきた方々も「うまかった」と言うしかなく(?)、正雄のもとには次々とお褒めと感謝の言葉が寄せられてきた。そうして有頂天になっている最中、ある工芸作家の方からの電話、「正直に言ってイイ。普通売っている米とあまり変わらなかった・・」というのがまさしく青天の霹靂。その時の正雄の落ち込みようは今でも忘れられません(爆)。
 田圃の場所が家から高速道路1時間、一般道30分の遠距離だったのが敗因のもと。結局、やってる(厳密に言えばやらせてる)本人が田園から遠い都市生活者であることこそ間違いなのかも・・・。

しかし彼はまだ農業をやるつもりでいる。今度は畑にソバを栽培し、手打ちソバの実を収穫して、繋ぎ無しのソバ打ちするとか。

兼業農家への道は険しい・・・・・・


ちなみに
2006年4月現在、我が家ではソバ打ちをやっておりません・・・。 

<おまけ秘蔵写真館
結婚直後写真

結婚当初(20代前半!!)の写真。
決して「勝新」ではありません
 
文責:小松和彦 


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