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2015年3月『俺のミャンマー少数民族展』開催記念
たそがれ見聞録・カチン族編
 2015年3月 掲載
村の子供

マップ

1、ソロツーリスト

階段を下りて来たマダムが「お父さん、どうしたの、大丈夫?」と心配そうな声で叫んで立ちすくんだ。

居間の床に片膝を胸で屈折し、もう一方の足が伸びきっている。両手は頭上にバッタリとうつ伏せになり、車に轢かれたカエルのような無残な姿を見たのだ。

いつか来る、その日が遂に訪れたかのように、ジッと観察して救急車を呼ぶ前に症状確認をして今後の対処方法を検討していた。マダムはアガサクリスティが大好きで寝る前にベッドでDVDを観るのを日課とするほどのミステリーマニアでこんな現場には慣れている。

待てよ、病気でも事故でもなく、膝のストレッチ体操をして腹式呼吸で深呼吸をするので、急には返答が出来ないのだ。一息入れて動き出した姿に予想が外れて安堵したのか「な〜んだ」と生体反応を確認したマダムは何事も無かった様に部屋を出て行った。

マダムは高齢者になった酒好きの夫の健康を気に掛け、いつ如何様にも対処出来るように心積りを準備している。たとえ、どこで倒れても、亡くなっても、海外で飛行機が墜落しても慌てないと言っているが、勝手に急かされても行きたい場所がまだまだあり、急いで亡くなるわけには行かない事情がある。それで、毎日の様にスポーツジムに通い、ストレッチ体操やウォーキングをしている。それでも歳相応の場所に出掛ければ問題も少ないのだが、近年、アジアの辺境の布に興味を示し、辺境の布と聞けば秘めている冒険心が燃え上り、今のうちに出掛けなければとせっせと出掛けている。

近頃、団塊世代のソロ・ツーリストと言って、海外へ一人旅を勧める出版が目につくようになった。グループ旅行の様に他人任せで気遣いする事も無く、お金も掛けず自由気儘に一人で旅に出よと勧めている。勇気を持って出掛けるとグループ旅行では味わえない旅の醍醐味を感じられると語っている。かいつまんで一人旅の良い点を挙げると、

1.自己再発見の機会だ。
夜になるとテレビを見ても言葉が分からないので面白もなく、一人で飲んでも相手も居ないので切上げが早い。暇だから過去や将来をジックリ考える時間が有り、自己再発見の絶好の機会だ。
「見聞録の原稿も書けます。」

2.家族への感謝の気持ちが高まる。
一人になると日頃、気付かない家族の有難味を感じるようになる。自己に謙虚になり、家族への感謝の気持ちも高まり、家庭平和に貢献する。強いては旅の多少の出費も安くつく。
「気持ちで良ければた易い事です、感謝の気持ち持ちます、持ちますのでどこに運べば良いのでしょうか?」

3.自主性が高まる。
自分で行動し、いつでも決断を求められるので自主性が付く。
「そうです、俺も朝起きるとその日に着る服がベッドに並べられ、食べ物は食卓に並べられた料理を食べる。夕食には律儀に毎晩酒を飲むが少し飲み過ぎると審判長登場の如く、直ぐにイエローカードが出され、無視するとレットカードが宣告される。時には累積でレッドカードを受け、数日間の謹慎処分を受ける羽目になる。」

4.社交性が高まる。
歳を重ねる毎に心の柔軟性がなくなり頑固になる。旅に出掛ければ否応無く他人と触れる機会が多くなり社交性が高まる。
「社交性?社交性?芸能人じゃあるまいし。」

児童教育の指導書みたいな趣旨で書かれていた。その通りです。可愛い子には勉強させ、魅力ある年寄には一人旅をさせると良いのです。

そんな本の影響もあってか、今回は辺境の少数民族の布探しと暮らし振りを見聞するためにミャンマー最北部のカチン州・州都ミッチーナと最北の町プータオ、それにシャン州山岳少数民族の町・チェイントンを選んだ。カチン族やミッチーナに知り合いは誰もいないが、いつもの如く行けば何とかなるさと24日間の日程で今話題のナッツリターン航空、本名・大韓航空で飛び立ったのであります。


2、マノウ祭
 
ミャンマーは日本の1.8倍の国土を有し、人口6000万人の大きな国です。民族はビルマ族が7割を占め、シャン族、カチン族など7つの少数民族が国土の周辺に住んでいる多民族国家です。長い間、軍事政権下で強権的な指導を押し付けられた各地の少数民族は軍事政権に反旗を翻し独立運動に走った。2010年現在のテイン・セイン政権が民主化路線に変更し、各地の少数民族との和平合意への対話を進め、会談が功を奏し徐々に内乱も治まってきた。

カチン族は中国南部とミャンマー北部一帯に100万人余りの人口を有している。カチン族も軍事政権に抵抗してカチン独立軍・KIAを創設し、長年戦ってきたが2013年にようやく和平合意に達した。カチン州にも外国人が入域し、自由に動き回れる時代が来たので早速、州都・ミッチーナで開かれるカチン族の新年を祝う祭り・マノウ祭に焦点をあてて訪れた。
日本でも年一度のお祭りには地域をあげて特別な思い入れと情熱が込められて開催されているがマノウ祭はカチン族の民族の誇りと権威をかけた祭りだ。

ミッチーナ空港からホテルに到着した。今回のホテルは西城秀樹の歌で有名なYMCAです。YMCAは若者だけでなく老人でも宿泊しても良いのです。ここを選んだ理由はただ一つ、ここで日本の大学に留学経験がある女性が日本語教室を開いているとのネット情報を得たからです。見知らぬ場所に出掛けても思うようには行動出来ないものです、言葉が通じる人がいるといないとでは大違いです。会えば必ず良い情報が得られるはずとホテルに向かった。1泊15ドルのホテルは予想通り薄暗く、くたびれ果てた2階建ての建物だった。部屋はこの上なく簡素な部屋でした。 宿泊棟の両隣に通路を挟んで粗末な長屋と講堂が建っていた。長屋の一部屋が日本語教室だった。早速、教室に入った。20代の若い女性生徒8人を相手に50歳前後の先生が授業前の雑談に花を咲かせていた。突然の来客者の訪問に先生は少し驚いた様子だが、
「初めてミッチーナに来ました、どこに行けば良いのか分かりません、教えて下さい」と経緯を話しお願いした。
見知らぬ男に興味を感じてくれた様で(ミャンマーではなぜか俺は女性に受けが良いのです)
「分かりました、後で連絡します」と協力依頼をあっさりと引受けてくれた。これでひと安心です。

YMCAの隣に「ORIENT」と看板を掲げている食堂があった。料理の写真が載っている看板が立て掛けてあり、料理を注文しようと指差してつい日本語で
「これ、うどん?」と言ってしまった。
そしたら側にいたカチン人のマスターが驚いた様に
「あなたは日本人ですか?」と日本語で返答してきたではないか。そうです、俺は外国ではドイツ人、フランス人、イラン人などに見られ、日本人に見えないのだ。

彼は日本で15年働き、資金を貯めて故郷の一等地で食堂を開店していた。もちろん、日本語は堪能でカチンの話や日本での思い出などを丁寧に話してくれ直ぐに親しくなった。メニューにはカチン料理の他にトンカツや中華丼などの日本食メニューもあり。毎日の食事をここに決めた。これで初日にして日本語OK、食事OK、ミッチーナ攻略の体制が拍子抜けする程、呆気なく整ったのだ。さらに、翌朝、食堂に朝食を食べに行くとマスターに日本語で
「おはようございます」と挨拶したら一人でテーブルに座っていた中国人風の中年の男性が驚いたように
「あなた日本人?」と再び声が掛かった。彼はなんと言語学者で長年、ミッチーナに通ってカチン語を研究している大学の先生だった。先生はこの食堂の常連客だった。

滅多に日本人が来ない場所で日本人に会うのは絶滅危惧種と出会った様な感動ものだ。昨年夏に旅したインドネシアの辺境の島・ライジュア島で出会った京大大学院生の研究員と同じです。

「何しに来たの?」
「カチンの布を探しがてらにマノウ祭を観にきました」
「俺もこれから行く予定だから、一緒に行く?」と意気投合し、幸運にも先生と一緒にマノウ祭を見に行くことになった。これで日本語ガイド付きで万全の体制になった。こんな出会いが有るから一人旅は面白いのです。日本に居れば絶対、間違っても挨拶する事もないし、知り合う機会もない相手でもこの辺境であれば
「おう〜、我が同胞!」と初対面でも抱き合う程の仲になるのだ。以後、数日間、先生と一緒にビールや地元のワインを飲みながら話をするのが日課になった。

 

マノウ祭は市郊外の祭り専用広場で開催される。数千人規模の集まりで朝9時から開らかれていた。まずは珍しい外国人なのでゲスト登録する宴会場に入った。名簿に名前や国籍を記入するとゲストカードを首に掛けてもらった。なにやら外国人枠の特別待遇のようだ。クラブのホステスさんの様に可愛いい女性スタッフに椅子に座るように勧められた。テーブルの上にはバウンドケーキやお菓子が並べられ、さらに竹筒に入った度数の弱い日本酒風のカチン酒が振る舞われるサービスぶりだ。このままホステスさんを侍らせて無料で飲んでいても良いのだが目的はマノウ祭です。誘惑に流されてはいけません。後ろ髪引かれる思いで広場に足を運んだ。

カチン音楽に民族衣装を着た男女千人余りのカチン人が二列に並んで蛇行しながら優雅に踊っていた。カチン族にはジンポー、リスなど6つのグループがいてそれぞれ民族衣装も言語も違う。グループを組んでそれぞれの民族衣装を着て、神様に今年一年の願いを踊りで表す。曲に合わせて踊るが神様にお願いする種類によって踊り方が違う。5種類の踊りがあり、集団ごとに踊りを選択して踊る、一見バラバラのようだがこれがカチン族流儀なのだ。多くのカチン族はキリスト教を信仰している。1976年、この踊りがローマカソリック教会から神聖な踊りと正式に認定された権威ある踊りだ。フェンス越しに写真を撮っていたが人混みで良い写真が撮れない。広場の中には外国人が中に入って写真を撮っていたので、踊り子が広場に入るのに紛れて中に侵入した。これで写真は撮り放題、外国人特別優待枠で誰にも注意もされず良い写真が撮れた。

突然、会場の外が騒がしくなった。会場の入口から広場までの数百メートルの両脇に民族衣装を着た男女が整列していた。テイン・セイン大統領が突如会場に来たのだ。大統領は大胆不敵にも警備を付けず歩いていた。民主化路線に変更した立役者で国民に人気が高いようだ。笑顔で観客に手を振り観客の歓声に応えていた。

カメラを構えている俺にもなぜか時々、素朴な性格が定評のミャンマー人の女性から握手を求められるのだ。簡単な挨拶交し、握手するとたいそう喜ばれ大統領になった気分で笑顔を振りまいていた。日頃、有り得ない事が起きると心に動揺が走る。俺にこの国に住めと勧めているのだろうか、後はオンボロロン、オンボロボロンと一人喜んでいた。この話を言語学者の先生に話をしたら
「ミャンマー人は外国の来客者に親切なだけだ」とつれなく言われた。

祭は夕方5時頃に終了した。フィナーレは平服の聴衆者も参加してカチン族の団結を見せつけ、踊る人、見る人を興奮の渦に巻き込んで終わった。


3、ピクニック
  

辺境の町かと思っていたミッチーナは人口10万人、大河、エイヤワディーに沿った静かで、大木が立ち並ぶ緑豊かな美しい町だった。町中の道路は整備され、信号機も随所に設置されて周囲が戦乱の場所だったとは思われないほどだ。いまだゲリラが郊外を占拠して活動を展開しているが軍人や警察官の姿が目立つわけでもなく,お落ち着いた良い町だ。

マノウ祭 を見終わってホテルに帰ったら日本語教室の先生から連絡があり、明日の昼から生徒さんが「郊外の村で織物をしている家」に案内してくれると連絡が入った。さすが期待していた日本語教室の先生です、頼りになります。

「きっと片言の日本語を話せる若い子が一人バイクで登場し、俺が後ろに乗って彼女の知り合いの郊外の村にでも連れて行ってくれるのだろうか?」「でも二人連れとは目立つし、周りの視線が気になる」などと勝手にニタニタと想像していた。

時間になったらゾロゾロと教室の生徒達がバイクや車で集まり出した。先生も登場した。先生が
「今日は私が忙しいので、皆さんだけでコマツさんを連れて行って下さい、日本語を学べる良い機会ですのでたくさん質問してくだい。」と言った。と言う事は8人で出掛けると言う事らしい。両手に花?いや百花繚乱?でも、多すぎます。前途に暗雲が立ちこめたのでありました。

8名が車2台に分乗して出掛ける事になった。世界最貧国レベルに指定されているこの国で中古車と言えども車は超高級品です。生徒の一人はホンダフィット、もう一人はトヨタマークUの人気車に乗っていた。日本語を学んで日本に行こうとする事自体が贅沢な事で富裕層の子女達です。連れて行かれた所は「郊外の村で織物を織っている家」では無く、ピクニックに向いている郊外の山の中にある整地されたキリスト教教徒の墓地でした。郊外といえば郊外だが村ではありません。墓地です。

「コマツさん、ここの景色は綺麗でしょう?」と自信を持って聞いてくる。
「俺は山の中の墓地公園なぞに興味ありません」と言いたかったが、
「お墓がきれいで、良い景色です」と外交辞令で応えたが、本当は
「ピクニックする為に金を払ってミッチーナに来たのでは無いぞ」と言いたかった。

当然にも俺の役割は写真を撮る係りで、彼女達のお好みのポーズを撮った。撮った写真をどうするかと聞いたら
「私のfacebookのアドレスに写真を送って」としっかりメモにアドレスを書いて渡してよこした。
「ミッチーナはネットが繋がるの?」と聞いたら、
「うちのネットは大丈夫です」と言うではないか。特別な装置があるようだ。

車を運転する二人とも運転が不慣れで一人は強引、一人はバックも出来ない腕前だ。腕が悪いから謙虚に運転に集中すれば良いのだが話に夢中になって、後ろを振り返ってまでも話すから恐ろしい。

「皆さん、運転中は静かにしましょう」と言っても効き目がある訳でもない。すぐにまた騒ぎ出す。いくらミッチーナと言えども幹線道路はほどほど車も走ります。危ないです。

昼ご飯を食べる場所を決めるのに2台並んで窓を開け、並走しながら大声で話す恐怖の会話を演じた。後続の車がクラクション鳴らしても一向に動ずる様子も示さず、大声を張り上げて皆で笑っているではないか。隣に座っていると生きた心地がしない。いつ死んで良いと言って来たが、彼女達と共死にはしたくないと思い、昼食後は無免許運転覚悟で俺がハンドル握って運転した。


昼食は郊外の洒落た感じの良い野外の高級レストランだった。食事になると今度は娘盛り7人の集団だ。食事をしながら話すこと、話すこと、笑っては話し、話しては笑うの繰り返しで、はた迷惑な騒音をがなり立てていた。お勉強する目的も忘れて日本語の質問は1つもありません。時間が経っても一向に止める様子もなく、いい加減しろとお金を払いに行こうとしたら、行く先を閉ざす者、請求書を受け取りに行く者、割り勘を計算する者と流れ作業のように分担し
「あなたは私達の招待客ですので支払いは私達がします、もし、日本で会った時はご馳走して下さい」と日本語が一番上手な彼女が言うのでご馳走になった。

食事後、機織りしている家に連れて行ってくれると言うので期待していた。たどり着いた所は生徒の家の立派な織物工場だった。「村で織物している家」と言ったのに。確かに郊外だが織物工場ではないか。工場も家には違いはないが、間違ってもいないが正しくも無い、外国人には日本語は難しいようだ。

翌朝、食堂に行ってこの話をしたら
「村で織物をしている家はゲリラ支配地域の山奥にあり、この町中では機織りしている家は無いですよ」とマスターに言われた。

結局、その日は彼女達のピクニックに付き合わせられただけだった。
海外では要求の半分も実現すれば良い方です。こんな事も楽しい思い出だと諦めた。 

 

4、プータオ
カチン州・州都ミッチーナから飛行機でカチン州最北端の町プータオに飛んだ。途中、山の稜線に白い冠雪が連なっていた。空席が目立つ中、乗客や乗務員は皆、夢中になって冠雪した山々を感動した様子で眺めていた。プータオはミャンマーで唯一、雪景色が見られる町として知名度が高く、風光明媚な人口6000人の小さな町です。

希少価値とは可笑しなもので、雪は北国に住む我々にとっては果てしない戦いの相手でしかないのだが熱帯地方に住む人にとっては羨望の的の景色なのです。雪景色はロマンチックだそうです。雪が降ればサンタクロースが登場していつでもお土産が貰えるとでも思っているようです。一方、日本人の辺境好きにとってはカチン族の布と農村風景を見るため、遠くから万難を排してもやって来る価値がある場所なのです。どちらも遠くから眺めて見るのが一番美しいのですが、一度は行って見たくなります。

空港に着いたら入管の係官が外国人なので入域登録が必要で、ホテルの住所記入とパスポートのコピー5枚が必要だと言う。ホテルもコピー屋もどこに有るか分からないと言ってもここは英語が通じません。通じるのはミャンマー語とカチン族のロアン語、リス語だけです。
ネットでプータオのホテルを調べても分からなかった。現地で探せば一軒くらい有るだろうと思ってやって来たのだが、言葉が通じなければ頼み用も無い。困りました。係官が仕方がなさそうに、付いてくるように手招きした。彼のバイクの後ろに乗れと言っている。しばらく走ったらコピー機械がある店に到着し、パスポートをコピーしてくれた。輸入物資は全て250km離れた南のミッチーナから陸路で入るのだが、険しい山道です。乾季でもトラックで3日かかり、雨季なら1〜2週間もかかる。さらに、ゲリラの支配地域を通るので危険を伴う。よくぞコピー機を運んで来たものだと感激した。

また暫く走ったら1階がレストランで2階がゲストハウスの宿に到着した。ここで良いかどうか部屋を見るように言っている。テレビも机もないベッドだけの個室です。(停電が多いので電気製品はあまり使えない。)どこでも良いのです、泊まる場所さえあればと決め、お礼のお金を渡して別れた。人を疑うことが入管の仕事です、どこにこんなに親切な入管の係官がいるでしょうか。親切な係官のお陰で問題は一件落着です。ミャンマー人は有難い事に外国人、取り分け日本人には親切です。


プータオはこの時期、朝晩の冷え込みが激しく朝晩が7、8℃、日中は熱帯の暑さで27、8℃、寒暖の差が20℃もあります。それで毎朝、濃い霧が発生し、朝市や登校時は幻想的な濃霧の世界を見せてくれる。朝晩の寒さに合わせると冬支度、日中の暑さに合わせると夏支度でどちらに合わせるか迷いますが支度は当然、冬支度です。しかし、どの家にも、ゲストハウスにも暖房器具と言う物がありません。一般の家庭でも竹で編んだ竹壁か板壁一枚で外気を遮断する簡素な夏用の家に建てられています。ゲストハウスも板壁一枚で、さらに換気口らしき一部に空白部分があり、冷たい風が自由に部屋に入り込んできます。寝ていても顔が冷たく、顔にタオルを掛けて寝ていた。辺境マニアにとってはたいした問題ではありません。それでも泊まるところがあれば良いのです。

ゲストハウスには共同のシャワー室がありますが温度が低く、夜には寒くて使えません。使うときは夕方のまだ暑い時間に使います。一般家庭ではシャワーも無いので昼下がり、川に洗濯する時に川の冷たい水で体や髪を洗います。カチン族はキリスト教徒が多いので日曜礼拝に出かけます。礼拝参列前の金曜日や土曜日には川に洗濯がてらに沐浴にたくさん集まります。

朝の登校時、子供達は手袋もなく、皆、冬のコートかダウンを着てポケッに手を突っ込んで寒い寒いと歩いて学校に向かいます。帰宅時の4時頃はまだ太陽がギラギラと輝いているので元気にはしゃぎながら帰っていきます。毎日、夏と冬の二重生活を送っていました。
英語を話すガイドを探し、バイクの後ろに乗ってカチン族の村を回った。人工的な装飾が一切無い素朴な村の景色は、明治時代の日本の農村景色にタイムスリップします。のどかです!何もないのですが、村はきれいで、景色が素晴らしいです。探していた、大麻を植え麻織物をしている家もありました。ユネスコの世界遺産に指定される程の村々でした。

少数民族のどの村に出掛けても動物の繁殖期の様に幼児がたくさんいます。和平合意になり平和が訪れたので子供が産まれたのでしょうか。若い女性が買い物カゴを下げて歩いていると思うと皆、肩から布をたすき掛けして、布の中に幼児を抱えています。働いている時もたすき掛けに幼児です。時には叔母さんも、お祖父さんも、小さい女の子までたすき掛けに幼児です。平和の風が遠く秋田まで届き、出国以来、音信不通ですが我が家でも初孫が生まれ大騒ぎになっている事でしょう。俺が居ても何の役に立たず邪魔者扱いですので、これ幸いと旅に出ました。帰ったら、たすき掛けに幼児のスタイルで散歩したら三代目に怒られること必至です。

カチン族には6つのグループがあり、村とグループの説明を受けてもすぐに忘れ、分かりません。せめてそれぞれの民族衣装を着てくれたら分かりやすいのですが、今では残念ながらどこも同じ服装で、顔も見分けが付かないからです。

学校やキリスト教会が村ごとにあるので訪れました。カチン軍との境界近くの小さな中学校を訪れた時でした。写真を撮っていたら若い先生が遠くから近づいてきました。怪しい奴と思って注意しに来たのかと思ったら
「どこからきましたか?」
「日本から来ました、カチン族の村を見に来ました」と言ったら
「よかったら、一緒にお昼ご飯を食べませんか?」と思いがけない事を言うではないか。なに族でも結構、こんな可愛い先生に食事に誘われて断る筋合いはありません。喜んで後をついて行くと4人の女性の先生達が校舎の近くでテーブルの上に弁当を広げて食事の用意をしていました。挨拶したらここの学校は校長先生はじめ全員が女性の先生です。来訪者も珍しいが外国人が来る事も稀な事なのでしょう。生徒達が遠くから眺めている事も気にすることもなく先生達が喜んで向かい入れてくれました。5人の女性に囲まれての食事です、一人の先生が英語を話せますが他の4人は得意ではありません。一緒に食事をしている時は和気あいあいと言葉や意思が通じるものです。ご飯に辛い味噌を混ぜて食べたら暫くしたら額にドッと汗が噴き出してきまた。皆、笑いました。ポケットのテッシュを取り出したら横に座っていた迎えに来てくれた可愛い先生がテッシュを中から取り出し、額の汗を丁寧に拭いてくれるではありませんか!

オー、心の友よ、なんと優しい事!ララバイ、ララバイ!
お礼にパゴダ(仏塔)でも建ててあげたくなりました。
至れり尽くせりのサービスでした。
「来て良かった。ミャンマーは良い所だ。」と一人で喜んだ隠居人でした。
 

 

5、山岳少数民族
 
ミャンマー東部のシャン州、チャイントンに出掛けた。ここは民族衣装を着た山岳少数民族がたくさん集まっている場所です。シャン州にはシャン族の他にアカ族など30余りの少数民族が山間部に住んでいます。阿片王クンサー将軍が君臨していた黄金の三角地帯と呼ばれていた地域です。以前から野山で狩猟をしながら、焼畑で米を作り、自由気儘に生活をしている山岳少数民族の生き方がなんと人間らしい事かと憧れを少し感じていた。いつかは行ってみたいと思っていた念願の場所です。

ここでも英語のガイドを雇いトレッキングに出掛けた。初日はアカ族の一般的なコースで村の近くまで車で乗り付けると観光用に頭にシルバーの飾り物を被り、民族衣装を着たアカ族のおばさんが土産物の布を広げて観光客を待ち構えていた。10分も歩けばアカ族の家にたどり着くが、平地に住む民族の家や衣装や生活ぶりと違いもなく、さらに、荷物を運ぶオート三輪車まであり拍子抜けでした。ガイドに
「山岳少数民族は皆、こんな様子か?これでは観光村でつまらない」と不躾に文句を言ったら
「それなら明日、ロングハウスで生活を送っているワ・ロイ族の村に連れて行く」と自信ありげに言った。観光する時はガイドの優劣が物を言います。幸運にも今回の旅はどれも優秀なガイドに恵まれた。

 

ロングハウスはボルネオ島のイバン族やスマトラ島のダヤック族で観てきたが、ワ族と言えばあの大ファンの辺境作家・高野秀行先生が村に7ヶ月滞在して阿片栽培の体験を書いた「アヘン王国潜入記」の場所ではないか!ワ族に入域出来るとは予想外の展開に成った。ワ族は人口90万人と少ないがワ州連合軍は卓越した戦闘能力があり、ミャンマー国軍に負けた事がない少数民族最強軍団だ。早朝に出入国許可書を役所で貰い、車で2時間走った。途中、今度はワ州連合軍の検問所で入域許可を貰い、いよいよ山道に入った。暫く走ると車の走行不可能な急な坂道が現れた、車はここまで。サンダル履きで山道を登った。
「勝手に一人で動かないで下さい」とカイドに始めに警告された。トラやヒョウの猛獣が棲むこの森で一人で動けるはずが無いではないか。恐ろしい。それより
「俺を見捨てるなよ」と言いたいくらいだ。

途中、山の高台に軍の見張小屋が小さく見えた。挨拶のつもりで手を左右に大きく振ったらガイドが慌てて制止した。
「どうして?」と聞いたら、
「兵隊に狙撃される可能性があります」と言う。
「あんな遠くから撃って当たるの?」
「彼らは最新の装備をしているので当たります」と恐ろしいことを言う。さらに、
「ミャンマー国軍は装備も古いし戦闘が得意でないので当たらない可能性が高いが、彼らは戦闘に慣れていて強いです」と軍事評論家みたいに言った。こんな所で狙撃されては叶いません。それからはおとなしくガイドの後ろをついて歩いた。気力を振り絞ってやっと村に到着した。このトレッキングコースはフランス人やドイツ人の若者が挑戦するコースで老人は来ない。日本人も滅多に来ないとガイドに言われ、若い振りして老体に鞭打って頑張ったのだ。山の中腹に古い仏教寺院と7軒の大きな屋根が見えた。

「この村には何人位住んでいるの?」とガイドに聞いたら、
「約1000人です、大きな家には200人が住んでいます」と答えた。近づくと外で遊んでいた子供達が物珍しげに周りを囲んだ。裸足に汚れた粗末な服を着ていた。ガイドの知り合いの家に案内してもらい、電気も無い薄暗い巨大な家の中に入った。真ん中に通路らしき物があり、左右に6個、合計12個の大きな囲炉裏が備え付けられていた。囲炉裏の中には大きな五徳が3、4個設えられ巻が焚かれ、五徳1個が1家族の食卓用になっていた。家の住人は全て同族でお祖父さんも、お祖母さんも、叔父さんも、叔母さんも一族郎等全員皆、親戚なのだ。それも400年前から住んでいると言うから凄いではないか。

 

午前中なので大きな家には静寂感が漂い、老人と乳飲み子を抱えた若いお母さんがボーとした様子で珍しい来客者を眺めていた。ガイドが、
「この人は、ジャパンから来ました」と言ってもお爺さんもお祖母さんもジャパン、ジャパンと言うだけで興味を示さない。こっちも初めて見た巨大ハウスに衝撃を受け、暫く質問する言葉も失いボーとしていた。周りを見回しながらガイドに聞いた。
「どんなに相性が良い夫婦でもたまにはケンカをすることもあるんじゃないか?ましてや隣同士や親戚と争い事が起きないの?」
「争いは昔からありません」とガイドが言う。重ねて聞いても同じ答えを言う。400年も集団生活を続けていると遺伝子から争う意識が消えてしまうのだろうか?それとも精神安定剤を大量に含む食事でも毎日食べているのだろうか?と考えていたら誰かが
「協調性がないお前は、修行のためにここに住め」と囁く声が彼方から聞こえた。その通りです、昔から協調性がなく、問題を起こす事が時々あるのは事実だが、しかし、俺より先に住んで頂きたい方々が周りにたくさん居るではないか。あいつも、こいつも強制的に送り出したい奴らが沢山いる。俺が先陣を切るのはオコガマシイのであります。しかし、いつかここで暫く滞在して誰とも争わない「平穏王国潜入記」を書くのも面白いかと考えがよぎったのでした。

この村には学校は無く、男の子だけは寺の僧院で読み書きを習う事が出来るが女の子は教育を受ける機会もないのです。宗教が違うがIS(イスラム国)と同じです。限られた耕作地にも関わらず子孫繁栄のためと子供をたくさん産み、年頃になれば男性は兵隊になり女性は同じワ・ロイ族の他の村人と結婚するか、外に働きに出るとガイドが言った。
「外に出ると言う事は人身売買ブローカーに売り渡す事か?」と率直に聞いたら、
「過去にはあった」と仕事に差し障りがあると心配してかガイドは言葉を濁した。
「学校が無いのはワ・ロイ族だけで他のワ族の村にはある」とも言った。外から眺めていた山岳少数民族の生活は決して自由気儘ではないのでした。

翌日、向かった村も車で片道2時間、徒歩2時間のコースです。前日の疲れもあり徒歩をバイクに変えて村巡りした。以前は、ケシの栽培地だったのだが国際的世論に抵抗出来ず茶畑に転作していた。ケシ畑は人目につかない奥地を選んでまだ少し続いているのも事実だ。茶畑を眺めながら高野秀行先生のケシ畑はどうなったのかとフッと頭をかすめた。

 
 

 
6、少し長いあとがき
ボケ防止のソロ・ツーリストですから失敗談に事欠きません。

1.毎日、遊んでいると日にちの感覚が薄れ、出発の日にちを間違え危うく飛行機に乗り遅れる事件があった。朝、ホテルの受付に洗濯物をお頼みに行ったら、チェックアウトはどうすると聞かれ、日にちを間違えた事に気付き、慌てて荷物をまとめ空港に走って間に合った。

2.空港の待合室で本を読むのに熱中になっていたら、周りのお客が全員搭乗して係員が未乗客1名を必死に探していたら俺だった。係員と一緒に滑走路の敷地を走った。
国内便の空港では電光掲示板やマイクの知らせも無く、係員が一言「◯◯行きでーす」とミャンマー語で叫ぶだけです。プラカードもありません。手続きと同時にシールを服の上に貼られ、同じシールの人が動けばそれを見て列に向かいます。出発時間が定刻に立つ事が無い飛行機です、待合室が混み合うと何度も係員にチケットを見せて聞きに行く必要があります。

3.真冬の秋田から熱隊のミャンマーに出掛ける服装を迷った。ヤンゴンの気温は34度です。カチン州と言えども夏の服装で我慢出来ると判断した。荷物は途中で買付もするので出掛ける時は最小限です。

出発する時はサンダル履きの軽い冬装備で出掛けた。カチンに着いてみると朝晩の冷え込みが厳しく長袖下着、長袖シャツ、ズボン下、ヤッケは離せません。替えがないので洗濯にも出せません。4,5日も同じものを着ていると温かさも薄れる物だと気が付いたが手遅れです。暑ければ脱げば良いだけで夏の服装に合わせたのは間違いでした。

人との出会いで探している布とも出会います。少数民族の貴重な布も現地に足を伸ばしてみると良い物と出会います。今回は自慢の布がたくさん集まりました。自慢の布をいつかお見せする機会があると思いますので楽しみにしてください。親切なミャンマー人のご協力のお陰で良い仕事ができました。

次は何処かとヘッドライト〜、テールライト〜、旅はまだ終わらない〜のであります。 

 
 
 From "Retirement" 小松正雄
 
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キャラバン  小松家生々流転