2013年新春企画
たそがれ見聞録・レンバタ島編
 2013年1月 掲載
マップ

1、ラマレラ村


世界で唯一、捕鯨が許されている村がある。インドネシア東部のレンバタ島にある人口2000人の村だ。バリに住むインドネシア人に「レンバタ島を知っている?」と聞いても誰も知らないと答える。13,000も島があるインドネシアだ、沖縄と同じ大きさの島だが知名度が低い。クジラ捕りのラマレラ村を知っているかと聞けば、「テレビで見たことがあるがどこにあるかは知らない」と返答が帰ってくる。島より村の知名度が高いのだ。

ラマレラ村は400年も手銛で突く漁法でクジラを捕ってきた。長さ10m程の船の舳先に板をせり出し、ラマファと呼ばれるクジラ・ハンターが長さ4mの竹竿に銛を差し込み、全体重を掛けてクジラの急所めがけ、海中にダイブして突き刺す豪快な漁法だ。1年に20頭程度の捕鯨で村の生活を支えてきた。ここ10年で島の中心地からの道路が出来、時間制限ながら電気も点くようになった。古式イカットの産地として高い評価があり、クジラの村にも興味が沸くのでウルルン生活覚悟で1人、22日間の予定で出かけることになった。

辺境の地です。辿り着くのに秋田から最短距離でも4日も掛った。簡単に説明すると

1日目、秋田から飛行機でインドネシア・バリへ
2日目、バリから飛行機でフローレス島・マウメレへ
3日目、マウメレからバスで4時間ララントカ港へ、船で4時間レンバタ島中心地・レオレバ港へ
4日目、レオレバからバスで4時間、目的地・ラマレラ村到着

バリは観光地なので外国人が沢山いて暑いですが生活は快適だ。バリを飛び立ちフローレス島に入ると近代化の格差が激しく、違う国に来た感じがする。船がレンバタ島に着くと更に格差を感じ、また違う国に来た感じになる。空港や港で待ちかえる客引きや宿屋の程度の予想は付くものだがここは想定外だった。船を降りたら予想通り客引きがいて荷物を運んでくれた。

「一番良い宿へ連れて行ってくれ」とインドネシア語で言ったら「わかった!任せてくれ」と言った。行ったらバイクだった。乗れないので仲間を呼んで荷物用に1台、俺用に1台で一番良い宿に向かった。5分も走ったら宿に到着した。運賃は1台100円、2台で僅か200円だった。船から荷物を運んでこの金額とは気の毒に思い500円払ったら大喜びしていた。一番良い宿 は普通クラスの部屋しか空いてないと言われ、それで結構と泊ることにした。泊れるだけで有難いのです。

「部屋代はいくらですか?」と聞いたら「朝食付きで1泊700円です」と言われた。そんなら10日泊って7千円、100日泊っても7万円ではないか。マダムが先日、東京で1泊して3万円とか言っていたが、ここなら42日も泊れるのだ。

しかし、部屋は中庭に面し、窓は庭側だけでカーテンを閉めなければならない。部屋の備品は半分壊れた扇風機だけ。シャワーは水だけ、薄暗い電球が1個天井に付いているだけ。独房のような部屋だ。だが、これが町で一番の宿だ。明日訪れる辺境の村が急に心配になってきた。もしかして未だ原始的生活を続けていて、腰ミノファッションとヤシの葉で葺いた屋根の家だったりして?と想像した。

バス

コーヒーと2切れのパンケーキの朝食済ますとバスを待った。26名乗りのバスは人だけでなく荷物も運ぶので車掌が3人もいる。運送屋のように荷物を集荷して回るので中々出発しない。この時は野菜を詰め込んだ麻袋や足を縛った鶏を座席の下に収納していた。さらに手足を担ぎ棒に縛られた、生きた豚を屋上に積み上げたていた。俺はゆとりのある一番後ろの席に座るように指示された。延々と坂道を登っていたら中程の座席下に収められた鶏が俺の足元まで滑って来た。車掌に鶏が足元に来たことを知らせたら足で蹴る仕草をみせた。生きている鶏だ、とんがった口ばしで反撃されてはかなわない。サッカーボールのように蹴るわけには出来ないと躊躇していたら、車掌が近寄り無造作に足で蹴って元の位置に収めた。

距離が50q程度をバスで4時間も掛る道は苦痛の連続だった。それでも村に行きたいのかと左右に揺られながら試練を与えているようだ。細い山道を上り下りしていたら前方に美しい青海が見えた、ラマレラ村についに到着した。屋根を観た、トタン屋根ではないか。家はレンガ造りで辺境にしては立派なのだ。服装もTシャツにジーンズで俺と同じだった。


バスの運転手は気を利かして宿の近くにバスを止め、石段を登ればあると教えてくれた。旅行カバンを抱えて石段を登ろうとしたら、中学生の男の子が運ぶのを無言で手伝ってくれた。宿に着いた。民家に客用に3部屋増設した簡素な宿だ。1日3食付いて650円と格安だ。村にはレストランや食堂はありません。お金の使う余地がないリゾート地です。ここなら年金生活でもお金が貯まる夢の世界だ。

村の子供

浜では子供たちがサッカーをして遊んでいた。写真を撮ろうと近づいたら集まってきた。
「Where do you come from?」と英語で聞いて来たではないか!辺境の子が英語でご挨拶とはこれは何だ?
「日本からだよ、日本を知っている?」とインドネシア語で聞いたら、「Honda、Honda」と言う。そうです、ここは車よりバイクの世界です。
それで「そうだよ、ホンダ、ヤマハ,スズキ、日本」と言ったら小学4,5年生の子供がキョトンとしてボールを蹴る仕草をするではないか。
「ケイスケ ホンダ?」と聞いたら親指を立てて「グード!」だって、想定外だ。ここは本当に辺境の地なのか?

ラマレラ

2、クジラ捕り

クジラ捕りの様子を見たいと思って宿のママさんに依頼した。明日の朝、7時に出掛けるから準備するように言われた。翌朝、食堂に行ったら40代の男が待っていた。早速、後を付いて浜に向かった。浜には20艘を超えるクジラ漁の船が並んでいた。男は自分の船で出漁の準備に取り掛かった。俺は暇なのであちらこちら写真を撮っていたら暫くすると「ミスター!ミスター!」と海辺から大きな声で俺を呼んでいるのが聞こえた。船が出漁するので早く乗れと言っているようだ。

早速、船に乗った。俺の後に大勢の男達が乗るではないか。前方に2名、後方に4名それに俺と合計7名だ。もしかして、これは本気でクジラを捕りに行く船ではないかと初めて気が付いた。

体長10mを超えるマッコウクジラはパワーがあるので大変危険な仕事だ。銛がクジラに命中してもクジラが海中に潜ると船は一緒に海中に沈むし、クジラが早く泳ぎだすと船は木の葉のように引きずられ暴走するのだ。最後は仲間の船が助けに来るのを待つのだ。船にはライフ・ジャケットも浮輪もないではないか。俺はクジラ捕りの様子を見る観光船に乗りたかっただけなのだ。ここは海深1000mもある。巨大なサメもいるので溺れると死体の発見も難しいだろう。一般観光客を危険なクジラ漁の船に乗せるとは言語道断ではないか。想定外だ。それかと言っても今更、船から降りる訳にはゆかない。クジラよ、今日だけは近寄るな!どうか潮を噴き上げないでくれ!と祈った。

ラマファ

船の前方2人は親子のようだ。舳先にジッと立って視界一杯眺めているのがクジラ・ハンタ−のラマファだ。その後ろにピッタリついて後方の舵取りに両手の動きで指示を与えているのがラマファの父で指示と銛紐掛り、後ろ4人は船外機のエンジン操作と舵取り、銛磨きその他雑用掛りだ。

ラマファが動いた。竹竿に銛がはめ込まれていることを確認し竿を立てた。

指示係が舵取りにサインを送り、全速でその方向に向かった。暫くするとイルカが100頭を超える大群が俺にも見えるようになった。ラマファはこの大群に見向きもせず、更に進むと別のイルカの大群がいるではないか。更に左右にも大群がいる。まさにこれはイルカの大運動会だ。
イルカがいるいる、一杯いるではないか。4,5頭一列になってピョンピョン跳ねて遊んでいる。時には3mも空中にジャンプするので壮観だ。

ところでクジラとイルカは同じ種類で4mを超えるとクジラ、それ以下がイルカだ。イルカは動きが機敏で頭も良いので捕獲が難しい。群れの進む方向を予測し、斜め後方から群れと交差するように進み、話に夢中な奴か、二日酔のボケッとした奴を狙うのだ。ラマファは簡単には飛び込まない。ジッとタイミングを計る。ザブーンと遂に飛び込んだ。銛紐係りがしっかり紐をコントロールしている。暫くするとイルカが舷側に引き寄せられ雑用係が棍棒でイルカの頭を何度も叩き気絶させる。更に海中から泳いで戻ったラマファが長いナイフを2,3度突き刺し、仕留めてから船に引き上げるのだ。この日は7頭もイルカを仕留める歴史的大漁だった。

俺はいい加減な捕鯨賛成派だ。

1.クジラが哺乳類だから駄目だと?牛だって豚だって哺乳類ではないか。
2.クジラは可愛いからだめだと?豚は醜いから食べても良いのか。
3.イルカは知能が高いから駄目だと?馬鹿は死んでも良いと言うのか。
4.しかし、無理して食べなくても食料はいくらでもあるではないか。

3頭目まではラマファの快挙に声援を送っていた俺だが、後ろに並べているイルカの目を見たら急に気の毒になってきた。ボケッとして遊んでいたお前も悪いのだ。慈悲に満ちた目で無念の涙を流しているではないか。私でよかったらあなたたちの餌になりましょうと言っているようにも見えるのだ。ラマファさん今日は4頭で切り上げたらと言いたくなったが村人の生活が懸かっているのだ、俺に口を挟む権利がない。結局は7時間で14回海に飛び込んで7頭収穫し意気揚々と帰った。夢中になって見ていた俺の顔と腕は黒く焼けて翌日には皮がむけてきた。

肉干し

今夜の晩御飯にはイルカ料理が登場するかと期待したが昨日と同じ、トウモロコシ入り古代赤米に白菜とシラスのスープと焼きそば風うどんで変わりなかった。翌日も同じだった。朝ご飯は揚げバナナにコーヒー、昼は生のバナナです。

耕地のないラマレラ村です、クジラ肉は貴重な貨幣なのだ。クジラ肉は豆腐大に切って干し肉にする。山の村人が作った米、トウモロコシ、バナナと物々交換して生活を確保してきたのだ。物々交換はモガという単位基準がある。一モガは塩一盛、トウモロコシ六本、バナナ六本、小魚六匹、二モリはクジラ小片、トビウオ一匹など。例えばクジラ肉1片とはバナナ12本かトウモロコシ12本と交換する。大漁だからと言ってクジラ鍋で酒を飲むわけにはいかないのだ。週一度の物々交換する市場が昔から続いていた。

クジラ肉食べるのを期待して来たが、仕方がないと諦めて生温かいビンタンビールを飲んだ。

3、シスターさん

ラマレラ村に来た目的がもう1つあった。秋田になんとラマレラ村出身者がいる。そのことを知った俺も驚いたが相手も驚嘆した。インドネシアの人口2000人の村から来て秋田で仕事しているのだ。

義弟がカトリック系の学校に奉職している。職員室の彼のデスクの真向かいにインドネシア人の先生がいるので俺が辺境の地ラマレラ村に出掛けることを知って質問した。

「先生、レンバタ島のラマレラ村を知ってますか?」と聞いたら
「エッ!そこは私の生まれ故郷です、どうして村の名前を知っているの?」と驚いた。
「義兄が今度、ラマレラ村に行くそうです」
「ホント!どうして、秋田から村に行くの?」それがシスターさんだった。そんな身近に村の出身者が居るとは奇跡の巡り合わせだ。

俺は島と村の情報を得るため、彼女は村を訪れるという物好きな男の顔を見るため一度お会いすることになった。

人口2億3千万人のインドネシアはイスラム教徒が75%で世界最大のイスラム教人口を誇るがキリスト教徒も13%と地方を中心に布教が進んでいる。レンバタ島はイエズス会のカトリック教徒だ。イエズス会といえばフランシスコ・ザビエルではないか。日本に最初にキリスト教を布教した人だ。レンバタ島と日本がどこか繋がってきた。

村に生まれ育った人の職業の選択は限定されている。男はクジラを捕る漁師、女は漁師の妻になるしか方法がない。それ故、優秀な人たちは医師、公務員、教師、聖職者、看護婦の道を選び、村を捨てなければいけない。

シスターさんは優秀だった。日本語の読み書きを自由に操る事ができる。初めてお会いした瞬間、昔からの友人のように懐かしさがこみあげた。情報が少ない島のこと、彼女の貴重なお話を伺い大変助かった。


村には彼女の兄夫婦が実家に住んでいるので携帯電話にビデオメッセージを録画して見せることにした。小さな村です、直ぐに実家を見つけることができた。お兄さん夫婦は秋田から運ばれたメッセージを大変喜んで何度も繰り返し見てくれた。帰りにお兄さんからシスターさんにメッセージを語ってもらい秋田に持ち帰った。懐かしい兄夫婦の肉声と映像に彼女は大感激してくれた。俺はポストマンを立派に務めたのだ。


帰国後、彼女に聞きたいことがあった。ラマレラ村の食事は肉の無い糖尿病患者用の食事にも関わらず肥満の人も見かけた。太ったクジラを見ただけで太るんだろうか?と疑問を感じていたからだ。
「肥満の人は何を食べて太るんですか?」と聞いたら
「里芋とトウモロコシの食べ過ぎでしょう」とのことだった。
別にどうでもよい事だが、粗食に耐えた俺は疑問に持っていた。持ち続けているといつまでも頭の中を同じことが駆け巡り気になってしまうのだ。ようやく安堵した。



4、イカット

今回の旅行目的はイカット(絣布)の産地視察と収集だ。誰だ、ただ遊びにいってクジラを見るだけだろう!と言う奴は。半分当たっているが認めると税務署に経費が否認され可能性があるので認めない。仕事です、大仕事です。

どこで、どんな人たちが、どのように布を織っているのか調べ、科学的発想と思考に立ち、現状を弁証的根拠に基づき的確に分析し、国際的視野から今後の推移と展開を検討するものなのだ。(政治家の海外視察のように意味不明だ)

俺の出かける所はなぜか辺境が多い。それも赤道直下の熱帯が多い。辺境が好きなわけではない。ハワイやグアムに良い布があれば喜んで出かけ、永住しても良いのだが残念ながら何もないのだ。

レンバタ島やフローレス島は赤道直下に位置し、時代に取り残された島だ。ここには未だ、綿花を手で紡ぎ、草木染で染め、原始機で織っている貴重なイカットがまだ残っているとの情報でやってきたのだ。それで今回は8か所の村を訪れた。ホテルで車をチャーターし過酷な道路に耐えながら村に向かう。運転手は英語を話せないので事前に宿で英語を話せる人と3人で場所をチェックしてから出掛ける。村の広場に車を止めて1人で降りる。どこからか見ているのだろう、少し歩き回るとイイ男が来たと村人が寄ってくる。

「ハロー、どこから来たの?」
「ハロー、日本からだよ」
「何をするに来たの?」

「イカットを見に来た」と言えば家に案内される。どこも耕作地の少ない急な斜面や海に面した貧し村だった。面白いことに数キロしか離れていない村でもイカット文様が全く違う。文様を見ればどの村の出身かすぐに分かるのだ。イカットはサロン、肩掛け、ブランケットの3種類に使われている。どこでもイカットを織っていた。しかし、紡績糸に化学染料で染めたものが圧倒的で、草木染で染めたものが少しあっただけだ。昔からの手で糸を紡ぐ方法で織っているのは僅か1カ所の村だけだった。あと数年でインドネシアのイカットも取り得のないものになってしまうのだろう。


糸括り

作る工程をじっくり見たいのだが、不便で辺鄙な所だ。買いに来るお客などめったに来ない。ましてや、お金持ちの日本人が登場するとカモがネギを背負って来たようなものだ。村人も急にお金に対する欲望が沸くのだろうか、強引な売り込みが始まる。日頃、一般人から物を仕入れる事はしない。業者やコレクターなら値段交渉もビジネスとして割り切りが出来るからだ。一般人から値切れば日本人のイメージを悪くするし、吹っかけられて買うのもしゃくだからだ。

ある村に着いたら村人が集まってきた。1人のオバサンが流暢に英語を話す。1000円払うとこの場で全ての作業工程を見せると言う。払うと言ったら10分待ってくれと言った。近くのポルトガルの植民地時代に建てられた古い教会を観ていた。戻ってきたら8人のオバサンが製作工程別に仕事に励んでいた。これは便利で有難い。製作工程を見たいと言えばどこも織る工程しか見せない。織は1度見れば十分だ。その他の工程を見たいので参考になった。特に絣括りは糸に何の印もなく、頭の中のイメージで適当に括っていくのには驚いた。

作業工程を見終わったら、今度は買ってくれとイカットを沢山のオバサンが商品を並べて待っていた。先ほどの工程で作ったイカットだと胸を張るが、手紡ぎの糸を使ったものはなく、染料も化学染料を混ぜて使っている。俺は
「昔からのイカットが欲しいのだ」と言った。
「糸紡ぎだけでも6ヵ月もかかるので、今では誰も使わない」と言われた。
ジャカルタやバリの工場で大量生産されたイカットが出回っているのを、この人たちは知らないのだ。安ければ売れると思って手抜き仕事をしているのだ。

別の村では古い住居が立ち並ぶ光景を写真に撮っていたら、何処からか現われた沢山のオバサンたちに取り囲まれた。手に持ったイカットを買えと強要された。物の売り方が粗野で布を広げ俺の胸元にドンと突き出すのだ。うちのボンギンだって食事のときはお座り、お手をするのに。もっと優しく「買って〜」とでも言えないのか。皆、お金が欲しかったのだろう。見たら悪くものないので広場の物干し竿にイカットを陳列させ、中から選んで買ったらオバサンたちに感謝された。

現場を見ずして布を深くは語れないのだ。


織り

5、乗り物

熱帯の人は働かない。いつもダラダラとしている。100円の買い物をしても10万円の買い物をしても店員のサービスが良くなるわけでもない。いつもマイペース、無言で物を手渡す。ヤル気はないのかと言えばそうでもない。今回、移動手段はできる限りバスを利用した。安いだけでない市民の生活が感じられ、見ているだけで楽しいからだ。バスの運転手や車掌は驚くほど働く。1人でも多くのお客や荷物を乗せようと目を皿にして街を歩いている人を探している。お客を見つければ荷物を率先して運んでくれるではないか。やればできるじゃないか。実は、バスは所有者から1日いくらと運転手が借り受けて走るので目先の儲けに必死になるのだ。

フローレス島もレンバタ島もタクシーがまだ走ってないバイクの時代だ。手を挙げていると暇な一般人が運転するバイクが止まって乗せてくれる。1回30円程度で後ろに乗せてくれ、つり銭が面倒なので100円払う。通常は30円程度なので3倍も貰うとうれしいのか喜んでいた。100円単位なら俺でもお大尽風を吹かすことができるのだ。1万円単位なら無理だが。

ご隠居バイク

フローレス島の山中の宿に泊まった時のことだ。明日いよいよ最後の町・エンデにバスで行こうとしていた、宿の息子が来て車をチャーターして行かないかと営業に来た。俺は「ここまでバスと船を乗り継ついで来たので最後までバスで行きたいのだ」と話しても俺の話を全然聞こうともしない。彼は運転手だ。以来、俺の顔を見れば「明日、エンデ3500円でどうだ?」と同じことを話す、それも50回を超えるのだ。この男は働かない典型で自分の小さな子供を相手に遊んでいるか友達と話をしているだけだ。働くと言えば俺に営業に来るだけだ。意地でも乗らないぞと決めた。チェックアウトするとき宿泊台帳に名前と日にちを記入したら俺の前は2週間も前だった。

働きたくても働く機会がないのだ。何十回でも俺に営業を繰り返すしか仕事がないのだ。

10時発のバスは2時間待っても来なかった。諦めて車で行くことにした。宿のママと妹がなんと図々しくも一緒に乗り込んで来たではないか。1人乗るも3人乗るも確かに同じだがお金を払う俺の許可を得ても良いものだが、この連中全く気にしないのだ。どこまで図々しいのだ。
 「エンデに何か用事があるのか?」と聞いたら 「何もない、街を見たいから」と答えた。人口7万人のエンデの街も山奥の村の人にとっては憧れの大都会なのだ。 2時間でエンデの街に着いた。宿を決めレストランに案内させた。どうせ俺に便乗して食べるのだろうと思ったらメニューを持って来たら、出かけると言ってスーと消えた。俺が食べ終わる前に戻ってきた。
「好きなものを食べなさい」と言ったら「食べてきてお腹一杯だ」という。

遠慮して何かを食べてきたのだろう。図々しさと遠慮深さが混沌としている人間性だ。これが素朴な人間らしさなのだろう。

村の人々

6、イルカは旨かった


フローレス島の中心地がエンデだ。人口7万人、島で唯一大学がある街だ。最初からこの街には良いイカットがあるだろうと期待していた。更に中国陶磁器もあってもおかしくない場所だと睨んでいた、俺の勝負の場所なのだ。

市場に出掛けた。商店街はないが市場にすべての店が並んでいるので便利だ。

魚売り場を見たらイルカを解体しているではないか!ラマレラ村で命がけで船に乗り7頭も捕ったのに1口も食べられなかった無念をここで晴らせるのだ。魚屋に一番うまい肉をくれといった。魚屋はレンガ大の大きさに切ってくれ値段は僅か200円だった。昨夜のレストランに持って行き
「今夜もディナーに来るからこのイルカ肉を料理してくれ」と頼んだらインドネシア語が執念で通じたようだった。

大型のクジラより小型のイルカの方が旨いそうだ。夕方5時にレストランに行ったら俺の姿を確認してから料理を作ってくれた。5枚に切られたイルカ肉が出てきた。真黒く炭のような姿だが旨い!旨い!旨いのだ!上等な牛肉よりあっさりして歯応えも良い。上等な部分なので筋もなくスーと切れ、サラリと食べられる!これが人生最後のイルカ肉だと思い、ご飯も食べず、ビールも控えめにして食べられるだけ腹一杯食べた。ラマレラ村の仇をエンデで晴らしたのだ。

イルカ肉

さて本業のイカットだが、たしかに店は何店もありイカットを売っているが殆んど手抜きした安物だけだった。1点だけ藍染めで縞柄のイカットがあった。手に取って見ていたら店主が「ここの店にはその1点しか置いてないが良いものを欲しければ俺の自宅に来い」と誘われた。いよいよ主役の登場だ。待ってました!この出会い。早速、バイクに相乗りして自宅に向かった。見たこともない面白いイカットを一杯持っていた。彼はバイクと一緒に船に乗り、近隣の島々の奥地まで隈なくバイクでイカットを探すのを仕事にしているプロだった。ここで沢山買うことが出来た。どうにか胸を張って家に帰れるのだ。


村落

7、KO負け

「あっカメラがない!」と叫んだのはトランジットで仁川空港に着陸した時だった。秋田空港に愛用のニコン一眼レフのカメラを忘れた。試合開始早々、強烈な右アッパーでカウント8のダウンだ。カメラは空港内で韓国製の小型カメラを購入し、どうにか急場をしのいだが大失態だった。

毎日、数々の失敗を繰り返すも、どうにか宿に泊まれ、次の目的地に着ければ良しとしていた。レンバタ島、フローレス島をどうにかクリアーした後はスンバ島だった。イカットと言えばスンバ、スンバと言えばイカットだ。バリに一旦戻り、スンバ島に飛び立とうとした朝、猛烈な交通渋滞に見舞われた。前夜は10年前、イスラム原理主義者のテロ爆破事件で200名もの死亡者がでた事件があり、世界の首脳が集まる追悼集会があったのだ。普段は1時間前に空港に着くのが、出発15分前に出発カウンターに着いた。メル〇〇航空と言う札付きの悪名高い航空会社だ。この航空会社はオーバーブッキングや乗客が少なければ飛行キャンセルを平気で行う。勿論、リコンファーム(予約確認)をしていたので間に合うはずだが結果はノーだった。俺の席を誰かに高く売ったのだろう。次回のフライトは3日後だ。船で出掛けると数十時間掛る、老体には立ち上る気力もなく戦意喪失無念のKO負けだ。

いつかリベンジしてやるぞと遠吠えして、予定を早めて秋田に帰ることにした。



From "Retirement" 小松正雄

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キャラバン  小松家生々流転