2010年2月『俺のスマトラ展』開催記念

たそがれ見聞録・スマトラ編
 2010年1月 掲載

1、野望

10年程前からインドネシア各地を歩いてバティック(ジャワ更紗)の古布を集めていた。バティックはろうけつ染めで文様を染め上げたインドネシアの染色工芸だ。いつかはバティックの原点である、古渡り更紗を探し出してみたいと野望を懐くようになった。
古渡り更紗とは、16世紀から18世紀前半にインドで生産された草花や人物などの文様を手描きや木版で染めた木綿の布だ。それまで文様を表す技法は刺繍や絞りなどごく限られたものだった。初めて目に触れたカラフルで自由な文様は世界中で人気が沸騰した。
江戸時代の日本では、有力大名や茶人たちの間でこの端裂で作った茶入れ、煙草入れだけでも人気があった。近年、スマトラ島で新たに古渡り更紗が発見され、東京国立博物館や五島美術館で展覧会が開催され注目を集めていた。

スマトラ島はマレー半島とマラッカ海峡を挟んで対岸に位置する東西に2000kmもある細長い島だ。地図で観ると小さく見えるが、実際は日本の面積の1.25倍もある。島にはトラ、オランウータン、ゾウなどの野性動物が生息地している。又、マラッカ海峡を舞台に古くから海賊が出没する島としても知られている。
スマトラ島に出掛けて探せば400年前の古渡り更紗に出会えるかもと希望が膨らんだ。しかし、沈没船の宝探しのようで可能性も極めて少ない事も事実だ。躊躇していたが、思いきって今年の秋は古渡り更紗のスマトラ島だ!と4月に家族に宣言した。3代目は赤道直下の宝探しは暑さで大変だ、と他人事のように同意した。マダムは海賊のボロを集めて「ボロ市」でも開催するつもり?店が汚れるからボロは絶対買わないように、と注意されたので、綺麗な布を買ってくると約束した。400年前の布で綺麗なはずがない。ボロ布を拾ったとでも後で答えれば済む話だ。
スマトラ島には東西南北に大きな都市・メダン、パダン、パレンバン、ランプンがある。メダンはアチェ族とバタック族、パダンはミナンカバウ族、パレンバンはマレー族、ランプンはランプン族とそれぞれ違った部族が古くから住んでいる。太平洋戦争後、オランダから独立を果たしたインドネシアはマレー語を主体としたインドネシア語を共通語として使っているが、同じ部族同士は古い部族語が共通語として使われている。
スマトラ島では英語は殆んど通じないらしい。英語だって恥ずかしながらゆっくり話してどうにか理解できる俺なのに、インドネシア語?難題が出現したが、ここで諦める訳には行かない。家族だって喜んで支援しているわけでなく、俺が勝手に行きたいから傍観しているだけだ。意地でも行く!と早速本屋に出掛け、インドネシア語の本を3冊買ってきた。新たな言語を学習することは困難を極めるが、覚えなければ行かれないと覚悟を決めて、毎日早朝にインドネシア語の学習を5ヶ月間取り組んだ。遅々として進まないテンポに呆れながら、必要最小限の言葉を何度も繰り返し学習した。

ガイドブックを見てもスマトラ島に関してはわずかしか紹介されていない。家事労働の合間にスマトラに関した出版物やウェブサイトの旅行記などを読んで情報集めに奔走した。古渡り更紗の発見に情熱が沸き立って来た。

バタック族

2、バタック族

出発する1ヶ月前に3代目が急遽同行することになった。内心ほっとしながらスマトラ島に向かった。
島の東端に位置するメダンは人口200万人のスマトラ最大の都市だ。インドネシア最悪の治安の街、スリ、ひったくりに注意とガイドブックや大使館から紹介されている。半信半疑ながら秘策を用意した。ズボンの後ろポケットに「ご自由におとりください」と100円ショップで買った空の財布を入れて歩いた。しかし、滞在していた5日間、だれも財布をすってはくれなかった。

街にバタック族の古い織物をコレクションしている店があり、店主と親しくなった。バタック族の居住地は芸術性豊かで面白いからと勧められ、観光ポイントを地図に描いてくれた。ここでも英語は殆んど通じない。どうにか覚えた僅かなインドネシア語と英語のミックスで会話が成立している。

バタック族の老女

翌日、ホテルから車でバタック族の町へ出掛けた。運転手は20代の男だが無口な上、英語が殆んどダメ。地図を頼りにお勧めのレストランに入った。3人のバタック族の男達がお茶を飲んで話し込んでいた。我々を見た1人の男が日本人か?と日本語で聞いてきた。ジミーと名乗る51歳の男は日本人相手の昆虫商だと語った。日本には5回も来日しており、く上手に日本語を話す。森で採取したクワガタ、チョウ、カブトムシなどを日本に輸出しているらしい。日本経済が低調なので昆虫ビジネスも暇で大変だと嘆いていた。暇だから村の見学や工芸品の買い付けの案内をしてくれると言ってくれた。日本語の話せるバタック族に出会えた幸運に素直に感謝した。
バタック族の家はユニークだ。大きさは白川郷の古民家のようで100年から200年前に建てられた。舟形の屋根と彫刻が特徴的で、クギは1本も使われていない。昔バタック族が海洋民族だった名残を屋根に表現している。中に入ると窓も無く、薄暗い広い板敷きの空間に大きな囲炉裏が3個離れて設置されていた。3所帯が同居している。プライバシーが全く無いので、住民が住むことを嫌い大型住居が廃れている。修復して整備すれば観光客が世界中から集まるだろう。住民の意識も、国や州の資金も無く、保存は絶望的だとジミーは語った。
バタック族の古い織物も魅力的だ。絣と浮織りを混ぜたウロス(布)は高度な技術と感性を要求される。40年前から急激にレベルが低下し、現在では主にお土産用に織られている。村長さんに古い織物が無いかと聞いたら、家から100年以上前に織られた布だと、埃にまみれた布を持ってきた。草木染で、糸もたしかに古いが汚い。今ではだれもこんな古い布を持っていない、と村長さんに買うように勧められた。持ち帰れば汚いボロとマダムに怒られることを承知で、バタック族の親切心に感謝して買うことにした。
市場に行った。写真を撮っても断られることはない。俺も撮れ、私も撮って、と要求されるほど。珍しい外国人に誰もが親切にしてくれる。

バタック族の村

3、危機一髪

旅行に出掛ける前に3代目の知人から小さなお守りを2個戴いた。松尾芭蕉ゆかりの象潟・蚶満寺のものだった。古渡り更紗を求めてスマトラを旅する我々に相応しいと感心しながら「受難厄除」と書かれたお守りをカバンに入れて持ち歩いた。

スマトラで気懸りな事が2点あった。1点は整備不十分な道路での長距離移動、2点目は頻繁に起こる巨大地震だ。2004年にM9.3、死者23万人の惨事を起こしている。
どちらも心配しても始まらない、諦めるしかないと覚悟していた。もしもの事を想定して海外旅行保険を十二分に加入して出発した。


トバ湖

バタック族が多く住むトバ湖からメダンに帰る途中、3代目の電話が鳴った。スマトラで大地震が発生、数千人が死亡した模様だが大丈夫か?と日本からの問い合わせだ。揺れは全く感じず、車のラジオからも地震のニュースは流れてこなかった。
ホテルに帰ってテレビをつけたら、震源はメダンから500km離れたパダンと判明。2日後に訪れる予定の街だ。建物の壁にヒビが出来た程度の映像だった。ホテルのフロントに聞いたら、いつも外国の報道のほうが早く正確だ、と言っていた。
翌朝から事態は一変した。地震で倒壊したホテル前からの生中継が放映された。4階建てのホテルがぺちゃんこに潰れてしまい、その無残な状況の前で中年の女性が涙ながらに救出を訴える映像が流れていた。テレビの画像の下にホテルの名前が出ていた。カバンの中の旅行書類を取り出し、ネットで予約していたパダンのホテルを確認してみると「AMBACANG HOTEL」と、テレビが映し出している倒壊したホテルと同じ名前だった。電話をして確認したが当然返答なし。地震が2日遅れて発生していたら、我々はあの瓦礫の下だったかもしれない!
ニュース番組では地震の惨状を伝える映像のBGMに、レッド・ツェッペリンの『天国への階段』を流していた。まだ生存者がいるかもしれないという時に『天国への階段』は早すぎると思うが、インドネシア人は気にしないのか。。。
ホテルのレストランで地震の取材にきた日本の報道陣に会った。翌朝パダンに車で丸一日掛けて行くと言っていた。町の交差点にも募金箱を持ったボランティア達が現れ、信号待ちしている車やバイクに募金を呼びかけていた。

今回の地震はマグニチュード M7.6で死者1100名以上という。我々が宿泊予定だったホテルで亡くなった人が200名以上だ。地震で旅行プランの変更を余儀なくされ難渋したが、パダンのホテルで死んだと思えば気楽なことだった。
以後、旅行中に面倒な事があれば「パダンのホテルで死んだと思えば」が2人の合言葉のようになった。帰国後、保険会社に支払請求の件で問い合わせをしたら、地震の場合は対象外だと言われれた。もしパダンでのホテルで死んだとしても保険金は出なかったのだ。


地震の映像

4、日本軍


パレンバンの博物館を訪れた。オランダの植民地時代の様子や日本軍の武器なども展示してあった。見ている後ろから大きな声で歌を歌って来る中年の男がいた。「四面海もて囲まれし わが敷島の秋津洲 外なる敵を防ぐには 陸に砲台海に艦・・・」日本の歌だと分かるが意味が分からない。ニコニコと笑顔を振りまき得意げに歌ってから、我々にインドネシア語で日本人かと質問した。日本人です、日本から来ましたと答えた。そうすると彼は「1.2.3.・・・・」と数字を日本語でそらんじて見せ、日本人は大好きだと熱烈歓迎された。
彼はこの博物館の館長で、日本語は第二次世界大戦時に日本軍の現地補助兵(兵補)だった叔父さんから習ったのだと語った。片言の日本語とインドネシア語で館内を案内してくれた。石油を産出している場面のコーナーになったら今度は「藍より蒼き 大空に 大空にたちまち開く 百千の真白き薔薇の 花模様見よ落下傘・・・」と落下傘攻撃で石油施設を占拠した時の快挙を祝した軍歌『空の神兵』を歌うサービスだ。
親しくなった館長さんに古い更紗を探しにパレンバンに来たことを伝えた。親日家の館長さんは仕事を放り出し自ら案内役を買って出てくれた。

パレンバンは中世に「シュリーヴィジャラ王国」が栄えた土地で、古渡り更紗を発見できる可能性が高いのではと、最も期待していた街だ。強力な助っ人の下、紹介された店やコレクターの品々をジックリ捜し歩いた。初期のバティックや古いソンケット(金糸を使った織物)など面白いものが見つかったが、残念ながら200年前より新しい布ばかりだった。どこでも400年級の古い布はもうここには無いだろうと言われた。
ある商談中に英語が少し話せる怪しげな若い男が近寄ってきた。この若い男は我々の行動を遠くからじっと観察していた。彼は更紗のコレクターとして著名な日本人の名前を並べ、自分がいつも古い更紗や陶器を持っている人に日本人バイヤーを案内しているという。我々の宿泊しているホテルの名前を聞き出したら、後で連絡するからと消えていった。館長さんは、「あの男は危ないから近づくな。車で連れ回しピストルで脅して多額のお金を要求するかも知れない。」と警告した。
ホテルに帰ったら例の若い男が中年の男3名と一緒に待っていた。彼らは我々に見てもらいたいアンティークの布を持参している。ロビーで見せてもらおうと思ったが、彼らの人相と身なりの悪さで恥ずかしくなり、部屋で商談することにした。持ってきた品々や話しぶりからすると真っ当な骨董屋だ。滅多に来ないバイヤーを見つけ、千載一遇の機会と思いホテルまで訪ねてきたのだ。
3代目に「ボス頼むからこの値段で買ってくれ」と両手を会わせて懇願するが、無慈悲にも「TIDAK!(NO)」と一喝される。たいてい最後はボスの言い値で勝負あり。
その後も毎晩、入れ替わり立ち代り中年の男たちが部屋に商品を持ち運んできては、戦争責任を知らない世代のボスに冷たい値段で買い取られた。

パレンバン近郊の風景

5、ジャンビのバティック村

パレンバンから内陸へ200kmに位置する街、ジャンビ。ここでは地震で30名が死亡したとテレビで報道されていた。道路も寸断されている可能性があるが、行ってダメなら戻ろうと出発することにした。車で5時間ほど、何事も無く到着した。

ジャンビにはスマトラ島で唯一、バティックを生産している村がある。川沿いの高床式住宅が並ぶ村だ。高床式住居の1階が作業場で、お婆さんが「チャンチン」と呼ばれる道具で布に蝋を垂らし文様を伏せていた。2階の広い居間のケースに新しいバテッィクが積み重ねられていた。家の女性が「あなた達はこの家に来た2番目の日本人です」と言っているらしい。1番目は第二次世界大戦時の日本軍で、「扉に銃弾の痕があります」と銃弾痕を指差した。
集まっていた村人の女性達に土下座してスミマセンと大袈裟に謝ったら、彼女達は大笑いした。私の家にもおいでと次から次へと誘われ、一緒に写真を撮ったり、お茶を飲んだり、帰りがけにこれも敗戦処理かと思い、何点かのバティックを購入した。
村の案内人に古い布はないかと訪ねたら、4、5人で探して我々が宿泊しているホテルに持ってくると約束した。


バティックの工房

村を散策していたら古いイスラム教の神学校があった。学校の写真を撮っていたら珍しい外人が来た、と生徒たちに囲まれ大騒ぎだ。様子を見ていた先生が出てきて、是非学校の中に入ってください、と英語で話し掛けてきた。イスラム教の神学校というと最近は何かと物騒な話題が多いが、ここはサービス精神旺盛で平和そのもの。教室も普通の学校と変わりなかった。

ホテルに帰って村人を待つことにした。ロビーで待っていたら荷物を抱えた女性3人が、緊張した面持ちで入ってきた。荷物を広げてみると期待した古渡り更紗はなく、数十年前の古いバティックだった。意外な程の良品があった。何点か買うから少し安くしてくれ、と3代目が抜け目無く交渉したが、リーダー格の女性は冷たく「TIDAK!(NO)」。3代目は村で見た銃弾痕を思い出したのか、今度は素直に言い値で買った。3人はニコニコしながら村に帰っていった。

神学校

6、ソンケットと結婚式

工芸品を作っている背景も知りたいので、現地ではできるだけ制作している工房や家を訪ねることにしている。手仕事だと思っていたら、意外にも機械が入っているという場合もあったりするのだ。染めや織りなどの材料、技法を知ることは、布を扱っている仕事には欠かせない。

スマトラ島を代表する織物の1つにソンケットがある。ソンケットは金糸や銀糸が使われた織物で、結婚式など儀礼用の衣装として用いられている。日本の佐賀錦の帯のように豪華絢爛で、織るのには原始的な地機が使いられる。織り手には緻密さと集中力といい視力が必要とされ、その担い手のほとんどが若い女性だ。

ソンケット

日曜日になると各所で結婚式の披露宴が行われていた。ソンケットを着ている姿を見たいと思っていたら、受付していた人達に勧められ会場の中に入った。
ステージ正面に金色のカーテンが垂れ下がり、中央に新郎新婦とその両親が並んでいた。新郎新婦は金糸を使った帽子と金糸のソンケットを着て、金色の椅子に座っていた。手前で民族舞踊を披露している人達も金色尽くし。まさに黄金の華燭の宴だった。
ステージ裏では直径1メートルもある大きな鉄鍋を何個も並べ料理を作っていた。参加者はころあいを見て壇上に上がり新郎新婦とその両親にお祝いの言葉を述べる。壇上から降りると皿に料理を盛ってもらい、ビュッフェの食事をして帰るという方式だ。ここはイスラム教徒の国、アルコール類は当然無い。

豪華なソンケットを着た新郎新婦の写真を撮っていた3代目が、何を思ってか図々しくも壇上に上がり、両親と新郎新婦に握手して挨拶していた。他の参加者は皆正装しているのに、3代目はTシャツ姿のラフな格好。日本人の恥さらしめ、と眺めていたら料理を盛った皿まで勧められていた。流石に料理は固辞して帰ってきた。インドネシア語をろくに知らない3代目に「何と言った?」と聞いたら「TERIMA KASIH(ありがとう)」。勝手に写真を撮って悪いから挨拶に上がったら喜ばれたそうだ。

ホテルで英語を話せるスタッフに披露宴について聞いた。お祝いの金額はご近所なら相場として500円から1000円程度で、誰が参加しても結構。お金を払わないで食事を食べても良い、と教えてくれた。

海外を訪れると風習、習慣の違いで嫌なことが必ず何度かおこる。特に警察官や出入国の役人、運転手などとの間では、お金の問題が生じる。しかしスマトラ島では一度も出くわすことなく、人々の親切な対応には感心することばかりであった。お礼にお金を渡そうとしても、要らないと拒否される事もあった。素朴で、親切心溢れるスマトラ島だった。

新郎新婦

7、古渡り更紗発見

沈没船の宝探しは容易な事ではないと覚悟していた。簡単に見つかるなら誰でも出掛けているはずだ。かつてインドで作られた古い更紗は人気があるので、スマトラでも骨董屋やコレクターであれば皆その価値を知っていた。
スマトラ島南端の都市・ランプンでも骨董屋やギャラリーを回ったが、全くの予想外れで欲しい物が無かった。それでも何度か通っているうち、夜になるとホテルに骨董屋仲間たちが商品を持って集まるようになった。ホテルには英語の堪能なスタッフがいて、会話が分からない時は通訳をしてもらった。骨董屋たちもビジネスチャンスと思ってか、我々の希望するような物を持参して来るようになった。
いよいよスマトラ島を離れる前日、
骨董屋の一人が息子を連れてホテルに来た。息子が携帯電話の写真を見せて何かを言っているが、意味が分からない。写真は更紗風の衣装だった。ベソック(明日)、パギー(朝)、ラジャ(王族)、イカン(布)、パンジャン(貸す?)と繰り返し言っていた。翌朝半信半疑で彼の家に行くと、我々の到着を待ち構えていたように家族全員で出てきた。
紙袋の中から丁寧に服を取り出しテーブルに広げた。それは図録で見たことのある千継ぎ更紗衣装だった。思わず「あったー!」と叫んだ。千継ぎ更紗衣装はかつて王族が式典のときに着用したパッチワーク仕立の衣装だ。当時貴重だったインド更紗を1辺7.8cmの三角形に何十枚も継ぎ接ぎしながら仕立て、着る者の権力と富を象徴している。パッチワークに使われている更紗もほとんどが古渡り更紗。400年近く経ても気品を漂わせ、惚れ惚れする衣装だ。
幸運にもスマトラ最後の日に入手できたことに感謝し買い求めた。ついに発見した古渡り更紗を大事に抱えてホテルに帰り、スマトラを離れる準備をした。
分不相応な望みが叶った。

古更紗

From "Retirement" 小松正雄

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