ミャンマー辺境をゆく
ご隠居・小松正雄のたそがれ見聞録「ミャンマー・アラカン編」
2007年5月

刺青の女性


アラカン  アラカン  

 アラカン!嵐勘十郎ではありません。

 ミャンマー西部に位置する州で現在はヤカインと呼ばれている地域です。ミャンマーは織物の宝庫だ。特にアラカンに住んでいるカミ・チン族の織物は素晴らしい。今回はカミ・チン族の村と顔面刺青の風習が残っているレイト・チン族の村を訪ねてみようと計画した。

 出発前にミャンマー在住日本人K氏(52歳)とミャンマー人M君(26歳)が同行することになった。K氏はヤンゴンで田舎から出てきた若者に仕事を与え、利益追求より職場確保を優先するビジネスを展開している。最新型ニコン一眼レフのデジカメを買い求めたばかりのK氏はアラカン遺跡に興味を感じてその写真撮りを目的に参加。M君はK氏の下で働き昨年頑張って日本語検定2級の試験に合格した苦労人だ。今回は俺の通訳兼雑用係だ。

 ヤンゴンから飛行機で西へ2時間、カラダン川がベンガル湾に注ぎ込む州都:シットエーは人口6万人の小さな町だ。シットエーのアラカン人はバングラデッシュと国境を接しているのか肌の色黒く、がっしりした身体つきに精悍で厳しい目つきをしている。アラカンにはアラカン相撲があり日本と同じく素肌に褌スタイルで四つに組んでいる写真があった。勇猛の言葉がぴったりの姿だ。毎年11、12月に開催されると聞いた。

 大相撲にもモンゴルの次はアラカン横綱が登場?

 商店街は300m位の1本道に市場が付いているだけだが人通りが多く賑やかだ。市民の交通手段は自転車に椅子を横につけたサイカーで1回20円程度と格安だが幅が36cmしかなく振動すると腰骨があたり痛い。腰幅の広い人は乗れない。何人かで乗るのはバイクにリヤカーをつけたトクトクを利用する。自動車はトラックを時々見かける程度で信号機もない町だ。

 夕方近くになるとアルミの水甕を頭上に載せてせっせと家に水を運んでいる女性や子供の姿を目にする。

 目的地ミャウーはここから北へ70km、船で6時間余りの所だ。

 ミャンマー名物に停電がある。ヤンゴンでも停電が時々あり停電に慣れている市民は誰も騒がない。シットエーから先は頻繁に停電があると聞いた。ミャウーへの電話はここ2週間不通でホテル、ボート、ガイドの手配は現地で調達するしか方法がない。

 いつもと違い3人組なので何とかなると余裕を持ってミャウーへ向かった。

フェリー  満員のフェリー 

 
翌朝、フェリーが7:00出発なので30分前に船着場に着く。外国人運賃4ドル、現地人35円。ミャウーまで6時間の船旅,ノンビリ昼寝でもしてゆくつもりだったが既に満員状態。2日に1便の定期航路なのに特別室もない。K氏は運良く操縦席に案内されたが俺とM君はしかたなく2階の若い女性達が椅子に座っている前に空間を確保して床に直に座る。M君が「小松さんが珍しいので皆が見ているよ」と言われるも「私は珍しい動物ではありません」と言う勇気もないので諦めていた。有名タレントの辛さが分かった。黙っていても気まずいのでデジカメで写真を撮って画像を見せたり“ just a little” の英語で話しかけてみた。

「私は日本人です、あなたは日本を知っていますか?」

「聞いたことはあるが何所にあるか知らない」

「私の住んでいる秋田は雪が降ります、雪を見たことがありますか?」

「広告で見た!」そうだここは熱帯なのにミネラルウオーターの広告は雪山でスノーモービルに乗ったタレントの絵が空港に掛かっていた。

 そのうちに自称英語ガイド兼英語教師と称する若者が現れて英語で話しかけてきた。アラカンはアラカン語でミャンマー語とは違う、彼が通訳として活躍した。

 「あなたは何所の外国が好きですか?」当然、俺の手前日本と答えてくると思っていた。答えはコーリア!何故?「女優、男優が好きだから」!

 ここでも韓流ブームが到来だ。俺はヨン様しか知らないので私もヨン様を知っています?と言ったがヨン様では通じないのだ。

 若い女性が質問してきた、「あなたの宗教は?」。仏教です!日本も仏教が盛んでミャンマーと同じです(葬式仏教などと難しい事は言わない)と答えた。

 「日本のお経を教えてください」。エッー!この満員の船でお経を?さすが熱心な仏教国だ。日本国仏教徒として?意を決して手を合わせスタイルを気にしなが般若心経を半分ほど唱えた。良い声です!との答えだった。

 そんな会話で盛り上がっているうちに1人の中年男性がマイクを持って演説を始めた。M君に聞いたら薬の広告だとか。お金を払って広告をしているそうだ。1時間も演説していた。最後にはその軟膏を乗客に少しずつ塗って回った。俺の腕にも塗っていったがメンンソレタームのまがい品みたいな軟膏だ。それでも結構、演説の効あってか売れていた。演説のお陰で乗客は気が散ったのかジロジロ俺を見る事もなくなりホッとした。
                     
刺青  顔面刺青の村へ  

 
卑弥呼の時代、日本(倭国)でも顔に刺青を入れていた記録がある。チン族に古くから顔面に刺青を入れる風習があると聞いていた。

 刺青を入れた理由、年齢、刺青師、文様などに好奇心が湧き村を訪ねる計画を建てた。英語ガイド男がポンコツジープを伴って朝からホテルで待ち構えていた。でこぼこ道を20分走り船着場らしきところに着いた。ここから船で2時間余り、人口250人のバボン村に到着する。英語ガイド男が先に村に乗り込み俺たちは村の集会場で待っていた。顔面に蜘蛛の巣状の刺青を入れた女性たちがやって来た。用意していた質問事項にそって調査を開始した。日本語→ミャンマー語→アラカン語→ミャンマー語or英語→日本語の順で調査した。質問に答えてくれて1000チャツト(100円)、写真を撮らせてくれて1000チャツト(100円)の謝礼(現地での2000チャットは高価なのだ)。4人この村で調査した。他の人は農作業に出ているとのことで終了。次は船で20分離れた人口600人のクレイション村で調査した。村に着くと蜘蛛の巣状の刺青した老女が船着場の店で休んでいた。早速、ここでも同じく調査を開始したが途中で雨が強くなってきて止む無く途中で中止。お金が貰えると聞きつけ雨の中、老女の手を引いて連れてくる人もいたが1000チャツト渡して帰した。2つの村の調査で判った事は

1.刺青を入れた年齢 7歳〜13歳までの少女時代。

2.入れた理由は 皆が入れていたから早く入れてみたいと思っていた。

3.文様の選択 蜘蛛の巣状の文様しか知らない。

4.入れる前より美人になって顔に自信を持っている。

5.額のオデコ部分が一番気に入っている。

6.刺青師は数年に1度巡回してきて該当者にいれて謝礼を貰っていた。

7.刺青師は女性で30歳〜40歳くらい。

8.1週間から1ヶ月くらい痛かった。痛みの激しい人は数日間藁に包まれて寝ていた人もいた。

9. 当時は土俗信仰の「ナッ」を信仰していた。

10.仏教の広まりと刺青禁止命令で40年前から刺青師が来なくなった。

11.若い人は痛みを恐れ誰も刺青を望まない。
 一見、異様に見える蜘蛛の巣状の顔も良く見ると痛みを我慢しただけあってなかなか魅力的だった。外界との交流が極端に少なく風習が続いていたのだろう。
ミャウーの女性  レモンダイ  
 
 昨夜から強風と雨で荒れていた。朝になり雨が止んだが雲行きが怪しい。
 早朝ホテルから紹介されたボートガイドが来てどうするかと相談に来た。
 俺は「五風十雨」で昨夜、荒れたから今日は大丈夫だとピントハズレなことを言ったらM君はここでは10日も続けて荒れることがありますと言って一瞬シュントする。K氏は初めから今日は遺跡めぐりと決め込み不参加だ。
 レモンダイとは局地的台風のようなもの。サイクロンは大型、レモンダイは小型。ホテル側は一昨年イタリア人が2名レモンダイで死亡しているし危険だと。
 俺の決断次第になった。

 限られえた日数だし、明日出掛けられる保証もない。
 ここの川なら50mも泳げば岸に着くだろう。

 万一のことがあっても出掛ける前に1億円の海外保険にも入ってきたので安心だ?強行することにしてサイカーで船着場へ出発した。

 道半ばで今朝のガイドが慌てた様子で走ってきた。「危険だからやめて欲しい」と頼み込んできた。俺が船を運転できるわけでもないし残念ながら織物村行きは中止した。町の外れにカミ・チン族が住んでいる所があるので出掛けてみた。
 予想通り高度で緻密な技だ。ただし村を見たかったので物足りなかった。

 午後から馬車で中世のアラカン王国(1433ー1784)の遺跡を馬車で観ることにした。馬車は幌つきで快適だ。アラカン王国はオランダ、ポルトガル、中東諸国とアジアを結ぶ中継基地として栄えた。米と奴隷とラックを主な輸出品としてコスモポリタンを形成していた。1632年当時「レオン、ドノ」と名乗る侍が率いる日本武士団が王様の警護隊として活躍し日本人街も存在していた興味深い話がある。シャムの山田長政だけでなく関ヶ原の戦いで負け日本を捨て海外に活路を見出そうとした日本人もたくさんいたのだ。行き交う人を眺めていると「あっ日本人だ」と思われる顔立ちを眼にする。混血が多いせいか断然、美人が多い。俺も終の棲家をミャウーに定めようか?
 歴史のある街は雨が降っても風が吹いても風情を感じて楽しいなどと感じていたら雨が強く降り出してきた更に風も強くなってきた。強烈になってきた。レモンダイだ。馬車さえ動けない状態になってきたので途中で中止した。
 船で出掛けていたら転覆していただろう。

チンの村  チンの村に到着  
 
 小雨決行。街でたまに見かける自動車はポンコツだが船は中国製の木造漁船を改造した超ポンコツ船だ。2時間余りで村にたどり着く予定だが案の定、船が走り出して1時間後、エンジントラブルを起こす。水を掻き出しながらエンジンを分解して器用に新たにパッキングを作っていた。

 2時間待機した後、出発した。カミ・チン族の村は当初、山の中に散在していると思っていたが意外にもデルタ地帯にあった。焼畑農業よりデルタ地帯の稲作が楽なのだろうか?ロンリーション村は150家族の小さな村だ。村に着くと連日の豪雨で道路は冠水していた。向こうから歩いてきた中年の女性が粘土質の土に足を滑らせスッテンと転んだ。俺たちに見られ格好が悪かったのか照れくさそうに笑っていた。着ているものはずぶ濡れ、泥だらけになった。しかし、いつも川を風呂や洗濯場代わりに使っている人たちなので問題はない。問題は俺の方だ。荷物を最小限にしてきているので代えのズボンがない。ここで転べば明日はパンツ一丁で行動するしかない。「謎の野人ナトッー」のように見られ藤岡弘・探検隊に追いかけられては敵わない。ズボンの裾をたくし上げ、靴を手に持って両手をガイドに支えられて村の中に歩いていった。村長さんの家に案内され話を聞くことができた。奥さんが織物の実演をしてくれた。竹製の壁の壁面に向かい糸を掛け小さく簡単な織機を腰に掛けた。ナイフ形に作った竹製の箆で経糸を数えながら掬って文様を織り出していた。1日10cm位の作業だ。

 電気、ガス、水道もなく家財道具も少ないが整然とした家の中は快適だ。古い布を見せてもらったが驚くほど精密な文様だった。織物はどんなに機械が進歩しても手仕事には敵わないのだ。村長夫人が古い布を持っている家々を案内してくれたが遠慮して持っていないと断られた。断った女性が一緒に付いてくるので最後に20人くらいの集団になった。どうにか転ぶことなく無事に村巡りして次のアジドマ村へ。ここでも村長さんの家に案内され村長さんから村の様子を聞いた。村の案内を辞退し船に帰ったらまた修理している、30分は掛かると言っている。案内なしで勝手に家々を訪問すると今度はどこでも買ってくれと積極的に商品を並べたので買った。

 故障で帰りが遅くなりミャウーに着く頃には真っ暗になってきた。遠く家々の明かりがポツポツと見えてきた。空は曇りで真っ暗、簡素な生活の明かりは百万jの夜景より美しかった。

寺  ムハマニ寺院  

 
 
外国人立ち入り禁止地域が多いのがミャンマーだ。
 ミャウーから北へ40km自動車で1時間余りに位置するマハムニ寺院がこの地域の限界だ。この周辺は紀元前の古代アラカン遺跡群が存在するが遺跡は立ち入り禁止になっていた。辺鄙な場所にあるにかかわらず風格のある立派な寺院だ。アラカン最古の寺院だけで詳しいことは良くわからない。付属している小さな博物館があった。紀元前後から14,5世紀までの資料が並べられていた。写真を撮ろうとしたら撮影禁止だと言う。この国は軍事政権なのでやたら禁止が多い。

 マハムニの近くにカミ・チン族の村があり出掛けた。この日は珍しく気温38度の晴天だった。村まで車で行けず田んぼの畦道を歩くこと30分、山の麓にチャウセピン村がある。150家族の小さな村だ。村の道路は綺麗に掃除され敷地内も綺麗だ。ゴミ1つ落ちてない。家は竹製高床式家屋で整然としている。垣根も竹製で壊れた箇所も見られず綺麗に組んでいる。いつもの通り村長宅から訪問開始だ。家に上がったら古いギターがあった。英語ガイドが同行していたので得意の弾き語りを演奏させた。村の若い娘たちがたくさん集まってきて突如始まったライブに興味深げに聞き入っていた。

 村長夫人は織物の名人だったらしく自分が昔織った秀作の作品を見せて売ってくれた。娘たちも織物が上手で気に入った作品が数多くあった。この村には良質の織物があるぞと期待を抱いた。しかしこの村でもご婦人たちはご親切に他の家に案内してくれるが誰も売るものは無いと断られた。内心、早く帰ってくれたらよいのにと思ってガイドに案内不要と伝えるも気にしないで日傘をさしていつまでもゾロゾロついて離れない。最後は諦めて一旦帰ることにした。村外れで御礼の言葉を述べお引取り願ったがあぜ道に入ってもそれでもまだゾロゾロ付いて来た。村をだいぶ離れたところでやっと帰っていった。今更戻ることも出来ずそのまま帰ることにした。カミ・チン族の人たちはどこまでも親切な人たちだった。

 町で唯一の骨董屋兼喫茶店があり通っていた。少し暗くなってから出掛けたら電気も点けず、いや、点かず店を開いていた。天井には蛍光灯が装置されているのだが。暗くて商品が見えないので電気を点けるようお願いした。店主が了解と奥へ引っ込んでいった。暫くすると蝋燭2本を載せた職台を持ってきた。蝋燭の火を灯したがボーとした明かりで商品の粗が見えずどれも美しく見えた。
 

織物  ワポー村  

 織物村の探訪、最後はアラカン・ロンジーで有名なアラカン族・ワボー村だ。シットエーに近く帰りがけに立ち寄ることにした。フェリーが休みで屋根無しのスピードボートで出掛けることになった。ヤマハの4人乗りレジャーボートだ。小雨の中、猛烈なスピードで走るので傘を必死に前方に差出し風雨を防ぐ、早いだけで何も面白くない。2時間半じっと我慢していた。村に行くと思ったらシットエーに着いた。運転手が村を知らないので町でワボー村を知っている人を探して同乗させた。水路は道路より難しいのだ。目印になる建物もないし、標識もない。ましてやこの迷路のようなデルタだ。村への水路を覚えている人を探すしか方法がないのだ。水先案内人を乗せて再び村へ向った。

 ワボー村は200家族位の織物の村だ。毎回、ご親切な同伴案内に迷惑しているのでたとえ多少怪しまれても気の向くままにロンジーを織っている家々を訪れた。ロンジーとはミャンマー人の女性が着用する丈長のスカートのこと。アラカン・ロンジーが最も織が良い。驚いたことに2人がかりで織っていた。日本では中世から江戸時代まで空引き機という紋織りの機があった。織機の上に人が乗り経糸を持ち上げ、もう一人がその空間に横糸を通して織り込む。ジャガード織機以前の機織だ。ここワボー村では織機の横にもう一人が立って経糸を上げる役割をしていた。世界でも貴重な機織方法だ。値段を聞くと2人で織っている割には気の毒なほど安い価格だった。気前よく気に入った商品を片っ端から買って歩いた。現地貨幣の財布が空になり終了。帰りに気前の良さが感謝されたのか船着場でたくさんの人に見送りされて帰った。

最後に

ミャンマー滞在2週間、毎日雨だった。季節は暑気で晴れると38度、雨降ると30度の世界、高温多湿で体力の消耗が激しく時期の選択は良くなかった。
 入国時、税関でお土産の名画ビデオ50本没収(7本戻してもらった)される事件やバンコクでラオス行き航空チケット購入(日本から予約していた)を忘れる事件があり英語力の無さをいつもながら痛感。しかし連日、親切な人たちに助けられ今回も無事帰国することが出来た。
 K氏、M君をはじめ多くのミャンマー国民に感謝、感謝、感謝。
 ミャウーは良かった、俺の終の棲家はミャウーだ!

From "Retirement" 小松正雄



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