2008年12月『俺のキルギス展』開催記念

たそがれ見聞録
フェルガナ、キルギス編

 2008年9月

2年前、中央アジア・ウズベキスタンへ刺繍布「スザニ」を捜し求めに出掛けた。ウズベキスタンの中部から西部にかけて観光地としても有名なサマルカンドやブハラを中心に歩いた。その際に古い歴史を持ったウズベキスタン東部のフェルガナ地方と隣のキリギスタンにも面白いものがあるという情報を得た。
ウズベキスタンは英語が観光地以外あまり通じない。観光客が行かないフェルガナ地方は英語が通じないらしい。 中央アジア各国はロシア語を公用語としている国が多い。ロシア語で簡単な会話を話す必要を感じ3ヶ月間ロシア語にチャレンジした。毎朝、犬のギンちゃんと一緒に早く起き、机に向かった(もう1匹のボンちゃんはマダムと一緒に寝ている)。ギンちゃん相手に大声を張り上げ2人でロシア語を特訓した。出発まで2週間の禁酒生活で体調整え、24日間の日程で布を求めてキルギス&フェルガナへ勇躍1人旅立った。
シルクロードの中心地フェルガナ盆地に人口3万人の小さな町、リシタンがある。首都タシケントから300km離れ、キルギスとの国境に位置している。1000年の歴史を誇る陶器の町として有名だ。
出掛ける前にインターネットで調べていたらリシタンに日本語学級がある事を知った。メールのやり取りで親しくなり訪れることが目的のひとつになった。学校の名前を「NORIKO学級」と言う。1999年、小松製作所に勤務し、現地に赴任した経験がある大崎重勝氏が退職を期に設立した。教室1つの小さな日本語学校だ。2005年に大崎氏は癌で亡くなり現地のガニシェル氏(以下、ガニ氏)が意志を継承し一族の協力を得ながら運営している。
5年前、日本大使館がその功績を認め、近郊に「青年センター」を作った。中にはコンピューター室、図書館、会議室などがあり宿泊施設まで付いているが場所が不便で余り使用されている形跡が無い。今回はここを8日間、宿泊基地として使用した。
今回、この教室を訪れるに当り「のてや」文房具店さんのご協力を得てノート、鉛筆、消しゴムなどの文房具と幼児用言葉が出る絵本を子供たちに持参し喜ばれた。領収書代わりに和紙に筆ペンで1人1人名前を書かせた。皆、自分の名前をひらがなやカタカナで見事な字体で書いていた。

「青年センター」をベース基地にしてコーカンド、フェルガナ、マルギラン、アンディジャンなどフェルガナ盆地の各地を8日間走り回った。連日30度を越す炎天下、2000kmを走破した。アンディジャン、ナマンガンは3年前に反政府暴動が発生し、5000名が死亡したという危険地帯だ。それゆえ警察の監視が厳しく、町に入る前に案内人のガニ氏も緊張した様子で、俺に四角いウズベキ帽子を被るよう勧めた。バザールでは変な外人がウズベキ帽を被っているのでかえって目立つ。何処へ行っても何処から来た?とロシア語で言葉を掛けられた。日本だと答えると、多分初めて見るタイプの日本人だからなのか、周りに何かを話しかけジロジロ見ていた。さらに問題の警察官にも同じことを質問され、彼はウンウンと肯いていた。好奇心が湧くほどの顔でも姿でもないのだが。
マルギランでは木版染め(更紗)をしているおじいさんと会うことができた。インド、イランでこの技法を見てきたが、ここでは手差しを加えた技法で造っていた。色落ちについて聞いたら自信が有るらしく今、目の前で洗ってみるからよく見ていろとバケツを用意しだした。たくさん買ったのでおじいさんはかつて礼拝に用いていたという古い布を見せてくれた。逸品だった。
フェルガナ地方では刺繍布スザニやシルクの絣布を新旧取り混ぜて集めることができた。またガニ氏の兄、アリシェル氏は中世から続くリシュタン陶器の第一人者で、日本では重要無形文化財にあたるウズベキスタン大統領賞を受賞した陶芸家だ。彼の作品は中央アジアのイスラム陶器らしい色彩に溢れた見事なものばかりだった。シルクロードの真ん中にはまだ素晴らしい手仕事が残っているものだと感心させられた。

フェルガナから国境を越え、キルギスの街・オッシュへ入国した。入管手続きは40代のおばさんが担当した。厳しい目つきで書類を見て一瞬ニヤリ微笑んだ。所持金の額を書く欄で、ドルの桁を1桁間違っている事を指摘された。所持金を見せろと記入欄を指摘している。アッ!間違いだと認め訂正しようとすると彼女は書類を隠してしまった。英語はダメ、カタコトのロシア語もダメで通路に30分も待たされた。小部屋に案内され恰幅のよい所長らしき50代の男が登場した。握手を求め「イポニッツ(日本人)?」と聞いた。「ダー(はい)、イポニッツ」と握手を交わした。お前の書類は間違っていると言っているらしい。俺が助けてやるから50ドル出せと「5」と「0」を指で示した。仕方が無いので50ドル紙幣をテーブルに置くと無造作に上着のポケットに入れ、「イポン、ハラショ(日本は素晴しい)」と記入ミスを発見したおばさんと一緒に上機嫌で送り出してくれた。この稼ぎも仕事のうちなのだろうと諦めて部屋を出た。
ゲートを出ると前もって連絡していた若い男が「KOMATSU」と書いた紙を持って待っていた。男は少し英語を話せるが余り通じない。英語を話せる通訳を1日30ドルで紹介するからガイドを付けろと言っている。オッシュは出掛ける場所がバザールと博物館だけと限られているから運転手だけで十分だと伝えた。 彼は、オシュは危険だから1人歩きはするな、夜7時以降は特に危険だから出歩くなと忠告した。海外渡航安全情報でも警告が出ている事を知っているが現地人にそこまで言われると諦めるしかない。
ウズベクとキリギスの国境はソ連崩壊の影響で複雑になり飛び地まで存在する。国境線ラインにイスラムゲリラや麻薬の密売ルートが存在する。つまらないので3日間でオシュを脱出することに決めた。
9月上旬からイスラム教のラマダンが1ヶ月開始されていた。オシュはイスラムの教えが強く上等なレストランは皆、ラマダン休業だ。朝から夜7時半まで、食事は元より水さえ口にしてはいけない戒律だ。ホテルのレストランも客がいないのにもかかわらず夜7時半から営業する。事前6時ころレストランに出掛けロシア語ガイドブックの本からロシア料理の絵を見せて注文した。する7時40分に部屋に料理が出来たことを伝えに来る。客が誰もいないレストランで食事をした。ビールを飲みながら下手な川柳を2句思い浮かべた。
ワイロなら 早く言えよと 頭下げ」。
ラマダンで ハエ3匹が お相伴」。

キルギス南部のオシュからキルギス航空のオンボロ飛行機でビシュケクまで1時間。首都ビシュケクは人口75万人の都市だ。ビシュケクではオシェから連絡していた日本語ガイド・エリキンを案内人兼家主として雇い、1泊2食付で8日間、彼の自宅に泊まりバスで移動する事になった。
自宅は中心地から20km離れた郊外にあった。昔の日本の農家のように広い敷地に家が建っていた。昨年建てたばかりの新しい家で内心ほっとした。 12畳ほどの客間を与えてくれた。布団以外、家財道具が何も無く空間が広く感じられた。水道はなく、畑の中に電気で汲み上げる井戸の設備がある。食事の準備は電気。プロパンガスが高価なので電化生活をしている(しかし毎晩停電が発生する)。トイレは畑の奥にある小屋。近頃、老化現象で夜、トイレに1度起きる。停電で畑の中を歩いてトイレまでは無理なので、夜は必死に我慢することに決めた。
家族構成はエリキンと妻、娘二人、犬、さらに妻の妹、妻の弟、エリキンのイトコと大勢居る。朝食はボソボソのパンに杏ジャム、ピリカラジャムとチャイとシンプルだ。チャイに砂糖を入れ何杯もお替りする。夕食は野菜と肉の煮込みとご飯かうどん。汚い雑巾が1枚テーブルに上がっている。手を拭いたり、口を拭いたり、テーブルを拭いたり多種多様に活用する。
食卓で 引く手あまたの 黒雑巾」。
見ているだけで食欲を減退させるが文化の違いと諦めるしかない。日中、町に出掛け高級レストランで昼食をたくさん摂っているので困らない。毎日、スーパー(現地では高級店)でバナナやケーキをお土産用に、自分用にビールのつまみにチーズやビーフなどを買って帰る毎日だった。日本からサンタクロースが来たと皆に喜ばれた。ウルルン生活も俺流・我儘ウルルンだった。

エリキンはキルギスを知るためには小型バスなどを利用して庶民と接する機会を増やすことが面白いと提案してくれた。キルギスの交通機関はトロリーバス、バス、小型バス、タクシーがある。 一番人気は小型バスだ。いろいろな種類の小型バスが走っているが、ベンツの15人乗りのマイクロバスが主流派だ。路線は決められているが時刻表は無い。お金の受け渡しは走ってから自分より前の乗客に「何人分」と言ってバトンリレーのように渡し、最後は運転手の横に座っている客が運転手に渡すリレー方式。つり銭も同じように運転手から後方に渡すユニークな方法だ。
路線によって金額が決まっているが交渉しだいで負けてくれる場合がある。特に子供とお年寄りはお金が足りないと言って有り金を手のひらにのせて見せれば希望を叶えてくれる。郊外を走る路線のバスは客が希望する場所を指定すると何処でも臨時に止めてくれる便利さを備えている。 小型バスに乗っているとシルバーシートなどは無いがお年寄りが来れば当然のように若者は席を譲る。荷物をたくさん持っている人が乗ると誰でも手伝う姿を見ると、助け合いと素朴さが伝わってくる。
何度か俺も席を譲られたことがあった。平均寿命男63歳、女72歳のキリギスなら俺の余命もあと4年、当然と思い、ありがたくイスに座った。 秋田にも小型バスが欲しいものだと実感した。
貧しい国・キルギスと思い込み首都・ビシュケクに来た。2km四方の街のセンター街は意外にも高級ホテル、カジノ、高級レストラン、デパート、ショッピングセンターなどが並んで活気を見せていた。5、6年前から隣国のカザフスタンがオイルマネーで急に金持ちになり、ビシュケクに遊びに来てお金を落としているらしい。顔付きも似ていて、言葉もほぼ同じ。何処が違うと聞いたら車が違う。高級車に乗っているのがカザフ人でボロ車に乗っているがキルギス人だと説明された。カザフ人の影響で地価や物価が急上昇してキルギス人は困っているそうだ。
キルギス人は元々、馬に乗って羊や牛を追いかけて暮す遊牧民だ。フェルトで造ったユルタ(パオ、ゲルと同じ)を移動させながら暮らして来た。フェルトやユルタ関連で何か買う物があればと期待し、興味を引く工芸作家を一軒ずつ訪ね歩いた。そこでは新しい感覚のフェルト作品に何度も出会うことができた。まだ海外ではほとんど知られていない作家さんがほとんどだが、斬新なデザインと色彩感覚を持った数名の作品を買い集めた。

毎日サンタクロースがお土産を買ってくれるので、エリキンが御礼にとバーベキューパーティーを開催してくれた。エリキン、妻の弟、エリキンのイトコの男3人が料理、炭起こし、サラダ作りをした。マトンの塊を買ってきて何かのタレに漬け、串に肉を刺す。焼き上がったら串を抜き皿の上に盛りつけた。エリキンが日本語でスピーチを始めた。「たくさんのお土産有難う。本当に良い日本人に泊まってもらい感謝している。」などと日本語とキリギス語を一人二役で話した。ウルルンのテレビ番組でも見ているようだ。
次はゲストの俺にご指名が来た。その時、いつもより少し早めに電気が点いた。 子供たちは明るく光る蛍光灯に小さな手で拍手した。「誰も知らないキルギスに来て、暖かく迎えていただき有難う。」と感謝の言葉を述べた。日本語で「乾杯」とパーティーが始まった。日本では上等とは言えないマトン肉だが精一杯の気持ちが十分伝わり楽しかった。
ウルルンのTV番組では最後の夜は訪問者が料理を作り現地人に持て成すのが慣わしだが、俺では無理だ。お別れの前日に明日家族全員を中華レストランに招待することを正式に伝えた。当日、いつものように街に出掛け最後の仕事をした後、午後5時にレストランで待ち合わせた。初めてエリキンの妻が化粧をし正装している美しい姿を見た。子供たちも日頃、見たことの無い可愛い服を着て緊張した顔で店の前で待っていた。他の連中はどうしたの?と聞いたらエリキンは「皆忙しいので」と言い訳をした。遠慮したのだろう。
店に入るとロシア人家族が賑やかに豪華な料理を前にパーティーをしていた。エリキンに料理が残れば家で待っている家族に持って帰るから隣に負けない料理をオーダーするようにと指示した。料理が来たらまたご挨拶を求められた。「又、会えるように」と簡単に済ませた。 海の無い内陸国、キルギスでは大きな魚が珍しい。大きな魚を空揚げした甘酢あんかけ料理は子供たちに人気だ。初めての料理だが大喜びで食べていた。食後、残り物を袋に抱えて、街を散歩して最後の晩餐を終えた。家族を食事に招待してくれた日本人は小松さんが初めてだ、とエリキンに感謝された。
不自由な生活も慣れればどうにか暮らせるものだ。停電のお陰で毎日9時間の睡眠時間をとっていた。ビール中瓶2本とつまみが夕食時の定番で期待していたウルルン減量も効果が無かったが腹を壊すことも無く、病気もすることなかった。最後に初対面の外国人ガニシェル氏、エリキン氏のご協力で順調に買い付けができ、旅の目的が達成できた事を報告します。感謝、感謝。 
From 'RETIREMENT'小松正雄


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